【三国志を語りたい】鄧 綏(とう すい) 〜政治に心を砕いた後漢を支えた才媛〜
三国志の始まりは後漢の乱れからと言って過言ではないと思います。
後漢は光武帝劉秀が王莽を倒してから新たな船出を切った王朝で、光武帝、明帝、章帝の治世は比較的安定していたとされます。
ただ、陰りとして言えば帝は光武帝以外は短命だったということでした。
4代目の和帝は幼くして皇帝に即位し、養母の竇太后とその兄の竇憲ら竇氏一族(いわゆる外戚)に政治を許してしまう状況が生まれてしまいます。
和帝は宦官の鄭衆と図り、竇氏一族を誅殺して政治の実権を取り戻し、その功で鄭衆ら宦官は政治の中心を任されるようになり、以後、宦官の影響力が強くなっていきました。(後漢の転落が始まり出します。)
そんな中でも後漢を踏みとどめたのが今回ご紹介する「鄧 綏」で、和帝の皇后になります。
和帝も例に漏れず若くして亡くなってしまい、殤帝もまだ嬰児だったことから皇后である鄧綏が親政を始めます。
この鄧綏がかなり優秀なんです。
鄧綏は幼くして史書等をマスターした才媛で、政治力も抜群の女性でした。
それに兄の鄧騭も無欲で真面目で優秀であったことからこの2人が両輪となって後漢を支え出します。
また、宦官も暗躍し始めた時でしたが、鄧綏は対策を怠ってはいなかったので、政治の合間に彼らへの布石も行っていきます。(先述で宦官が大将軍を誅殺した例もあり、警戒心は強めですよね。。。)
なんと、殤帝が2歳にで崩御すると、次に安帝が即位します。
鄧綏が優れていた点としては、人への観察眼がありました。
鄧綏は安帝では国が乱れると判断したのか、安帝が青年になっても親政をやめずに次の皇太子選びにも注力していました。
劉一族の翼や順帝となる保にも目をかけ、大切に育ててきたようで、順帝保はその意思を継いだように後漢最後の善政を行います。
ちなみに保は安帝の息子ですが、安帝の寵愛を受けた貴人の子で、その貴人は安帝の皇后に妬まれて毒殺されています。
皇后の毒牙は保に及ぼうとしたため、鄧綏はこれから守るように自らの元に保を養っていたようでした。(当時も人間関係は恐ろしいですね。。。)
そしてこの時、保を支える付き添いとして選ばれたのが曹騰になります。
この曹騰は宦官でしたが忠義の漢で、順帝保を支え続けます。
そして何を隠そうこの曹騰は三国志の英雄曹操の祖父(宦官のため血の繋がりはない)に当たり、三国志始まりの鐘を鳴らす人物になるのでした。
さて、宦官の欲望、外戚の影響、皇后の嫉妬等全てを絶妙なバランスで維持し続けた鄧綏がなくなってしまうと、もう宮中は混沌と化します。
その曹騰達も巻き込まれてしまいますが、順帝保と曹騰の絆はこの欲に塗れた宮中の中でも最高のストーリーを紡いでいきます。
三国志の前に前哨戦、そこを大いに盛り上げる曹操の祖父曹騰の活躍を次回記載したいと思います。
なぜ、こんなに面白いのか!?読めばわかる!
三国志
宮城谷昌光
文集文庫
【参考 後漢家系図】
①光武帝→②明帝→③章帝→④和帝→⑤殤帝→⑥安帝→⑦少帝→⑧順帝→⑨沖帝→⑩質帝→11桓帝→12霊帝→13少帝→14献帝