「働くことが好き」という価値観と技術的失業
今の世の中には、真逆の結論になりかねないそれぞれ2つの考え方があります。
まず今後、現実に労働はどう変わっていくかという現象の問題。
・少子化や高齢化により社会全体の労働力の不足が深刻化し、誰もが死の間際まで働かないと社会が回らなくなる。(若者人口=年金保険料や税金を収めてくれる人口が減り、高齢者が一方的にもらう側・消費する側でいられなくなり、生産人口に組み込まないといけないという意味も含む)
・人工知能の進歩や産業の効率化により、技術的失業が深刻化。大半の労働を機械に奪われ、人間が就ける、出来る仕事が無くなってしまう。
これは「誰が生産を担うか」の問題です。続いて、分配の問題があります。
・各人への分配は労働への貢献度によってなされる。「働かざるもの食うべからず」が大原則であり、働くという行為を通じなければ、社会の生産物の分配にあずかる資格を持たない。
・人間には人権、生存権があり、労働への寄与度いかんを問わず、健康で文化的な最低限度の生活を営める程度の分配にあずかる資格を誰もが持つ。
さらに、労働=生きがいと考える価値観もあります。
・人間が人間らしく生きるには労働が不可欠である。労働をしなくなれば人間は堕落し、ダメになる。
・人間は労働以外にも生きる価値を見出すことが出来る。たとえ労働をしなくとも、生きがいを感じて生きていくことは十分に可能である。
もっと細かくしようと思えばいくらでも出来るでしょうが、これらそれぞれ相反する2つの考え方が今の社会ではぶつかり合っています。
機械化により仕事が実際になくなるのか、それともまだまだ人間の労働力は必要とされるのか、ここには価値観はあまり関わりません。現実的に機械や人工知能が進歩し人間を使うより効率的に生産できるようになれば、資本主義である以上、自然にそうなっていきます。
問題なのは、そういう自然の流れをせき止め、妨害しようとする、人間の価値観です。
働くのが好きだ、死ぬまで働きたい、それは個人の価値観であって、他人がどうこう言える話ではありません。どうぞ好きなだけ働いてくださいとしか言えない。
ですがその価値観なり希望なりが、人は死ぬまで働く「べきだ」になってしまったら、これは大問題です。
少子高齢化により現実として労働力が不足するという考え方が、今の日本では主流になっています。これは今現在まで人類社会を牽引してきた「人間労働力」を中心とする考え方で、今までの現実の延長線上で考えるものです。
かたや人工知能などにより人間が出来る仕事がなくなるという考え方は、今までの延長線上ではなく、新たな現象を前提として考えるものです。
人間の性質上、いままでの延長線上で考えるほうが想像しやすいから、ついつい「人間労働力の数が重要だ、若者の数、人口ピラミッドがきれいでないと社会は健全に発展しない」と考えがちです。
このどちらが現実化するかは、結果を見てみないとわかりません。
ここで大事なのは、これは現象としての現実の話であり、価値観の話ではない、ということです。もしこの現実の話に価値観を無理やり添わせようとすると、どうなるか? そのわかり易い例が、イギリスの産業革命で起きた「ラッダイト(機械打ち壊し)運動」です。機械に俺たちの仕事が奪われる、仕事を失ったら賃金を得られず、生きていけなくなる、悪いのは機械だ……というわけです。
それは現実にはならず、多くの人は新たに生み出される仕事に転職することで生きていくことが出来ました。たしかに、これまでは。
しかし昨今論じられてる技術的失業は、それらとは一線を画します。人工知能、機械自らが、人間の手を借りず進歩、ブラッシュアップしていけるレベルに到達しようとしている。これをシンギュラリティなどと言いますが、今回はそれは脇に置きます。
ここで大事なのは、今後の技術的失業においては、これまでのように新たな産業は生み出されない、生み出されても少数かとてつもなく高度で、失業した人々をすべて吸収するのは難しくなる、と考えられているということです。
つまり、大量の無職がどうしても発生せざるをえない、というわけです。
ここで問題が起きます。今まで我々は原則として、労働に対し賃金で報いるという形で、社会の生産物の再分配を行ってきました。人間が労働を自然物に加えることで、あらたな機能や価値を持つものに「変化」させる。その労力に対し対価が支払われてきた。だけどこれからは、機械が作業し手を加えたほうが、人間がするよりもより良くなっていく。それを人間が認めざるを得なくなっていくわけです。
土地や資産を持ち、その配当を受けるという資本家の分配の受け取り方は、例外とまでは言わないまでも、少数の選ばれし者の「特権」のようなものでした。大多数の人間は労働を通じて、家や服、パン(を手に入れるためにお金)を得ていた。
ところがその労働の大半が機械に奪われる。その機械は今までの人間に成り代わり、家や服、パンをこれまで以上の効率性と正確さで生産していく。絵画や小説、音楽、映画ですら、人間の手を借りずに創りだしていけるようになるとすら、言われています。今までと同じか、それ以上のものが生産されるようになります。
ところが大多数の人間は、労働から疎外され、賃金を得る機会を失ってしまいます。どんなに生産されても、それを受け取るための金銭を持たない状況になってしまう。人間より機械のほうが優秀なので、社長・資本家は人間の労働者を雇ってくれません。
こうなると、「働かざるもの食うべからず」を基本として社会の生産と流通を行い発展させてきた人類社会が、根本から変わらざるを得なくなります。労働以外の形、なんらかの口実で分配するしかなくなる。
方法としては、ベーシックインカム(BI)が最有力候補と考えられています。BIは労働を通じて生産に寄与するしないに関係なく、そこに生きている、生存していることを条件として分配を行いますからね。
働くことが生きがいの人は、苦しくなります。どんなに働きたくても仕事が無い状況になる。これは苦痛でしょう。そして、その個人的な価値観、喜びが満たされないことが不満となって溜まっていくと、「働かざるもの食うべからず」と固く信じ、「働かなければ人間は堕落する」となって、「人間から生きる喜び、労働を奪う機械は悪魔の手先だ、破壊しろ!」ということになっていく可能性は、大いにあると思います。「労働教」信者が現代版ラッダイト運動というテロ行為をすることすら、想像できるくらいです。
実際のところ、少子高齢化と労働力不足のほうが深刻化するかもしれません。人工知能は思いのほか進歩せず、いつまでも人間の労働力が必要とされる時代が続くかもしれない。それは将来の結果を見てみないとわかりません。「働くのが大好きだ」「死ぬまで働きたい」という個人の価値観も、その人の価値観として持たれるならば、いつまででも、それは自由です。
ですが、今の世の中には同時に、技術的失業により人間の労働が根こそぎ無くなる可能性が出てきているということも、同時に考えていただきたいのです。新たな仕事が今後も生まれ続けるなら、それは「いままでどおり」ですから、いままでどおりいろんな試行錯誤をやっていけば、なんとかなるでしょう。問題なのは「いままでどおりで無くなった時、どうするか?」です。
そもそも「少子高齢化」自体、いままでにない新たな現象です。それに対応するのに「死ぬまで働く」ことが本当に幸せなのか? 「可能な限り機械を導入し、労働を全面的に奪われないまでも、せめていままでどおり高齢になったら働かず悠々自適の生活を送れるようにする」ほうが幸せなのか?
この問題はいろんな要素や価値観が複雑に絡み合っています。簡単には、答えも出ないでしょう。願わくば、働きたい人はいくらでも働けて、そこまで働きたくない人はほどほど、まったく働きたくない人は働かないでも、それぞれの人の望むライフスタイルを選べる社会になればいいなと、個人的には思っています。
少子高齢化が従来に無い新たな危機だとしても、同時に技術的失業による労働減少問題も現実化してきているわけで、もしかしたら上手くバランスが取れるかもしれない。
人類が進歩発展してきたのは、より苦しくなるためですか? それとも、より豊かになるためですか? 起きてる時間はずっと獲物を追い、農作業をし、暗くなったら寝るしか無かった時代から、週休が1日になり2日になり、国によっては一ヶ月近く有休もらってバカンスに行けるような時代になってきた。夏の暑さに苦しむのが当然だったのに、今はエアコンで快適に過ごせるようになった。
個人的には人類はより豊かになるために進歩してきたと思っているし、それは今後も変わらないと思います。もし未来が今までより辛く厳しい時代や社会になるというなら、それは何かが間違っているんです。その間違いを正そうともせずに「厳しくなるから各自が努力して生き延びるしか無い」などと言うなら、それは時代に逆行しています。
「人間が人間らしくいるために労働は不可欠なのだ」と個人で思うのは勝手ですが、そのストイックな価値観のままに社会を定義されるのは、そうでない人にとってははなはだ迷惑です。「夏にエアコンなど自然に反している」と言ってるのと同じですからね。
あなたは、人類社会をいままでのままにしたいですか? それとも、新たな時代を切り開くものにしたいですか? 少子高齢化や技術的失業はいいことですか? 悪いことですか?
価値観と現象のありようをごちゃ混ぜにせず、適度の切り分けて考える思考力が、今もっとも大事になってきているのではないかなと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?