インド文化圏の解脱涅槃は「やさしさ」で出来ています
前回(日本人が意地でも輪廻転生を納得する方法は無いのか?)はインド文化圏も欧米のキリスト教やイスラム教も、転生を信じてると書いた。だけどよく考えると、この2つってどうも中身が違うんだよね。
(注記:この記事、なんと2014年に書いて、下書きで放り出して、そのまんまにしてました。そのため上で「前回」というような書き方になってますが、リンクを張ってそのままにしておきます。)
キリスト教系統(イスラム、キリスト、ユダヤ)は、この身このままでの転生が前提となってる。Aさんが死んだらAさんのままで天国なり地獄なりに転生し、そこで永遠の命を得る。日本人が想定する転生って実はこれなんだよね。つまり、自我の継続性を前提としてる。
ところがインド文化圏の転生観について調べたことがあるけど、キリスト教系統のようなズバリこれというものが見つからなかった。ものすごく曖昧。というか、自我の継続性についてのこだわりがさっぱり見られない。
前回書いたようにイスラム教では死体の火葬を避ける。それは自分という存在が最後の審判で生まれ変わるのにこの自らの身体が必要不可欠だからであって、そこには自我の継続性へのこだわりが強く感じられる。
インドでは、死体は川に流しちゃう。その死体は当然魚などに食べられることが前提。だけどそれは、魂が抜けた死体はただのものと一緒だというだけのことであり、魂・自我の継続性とはまったく別だから、これをもって継続性にこだわりがないとは言い切れない。
では結局のところ、彼らは輪廻転生をどういうものだと考えているのか? 輪廻転生の苦しみを思い出し厭うことで二度と生まれ変わらないですむ解脱を目指すにしたって、自我の継続性がないなら、それは他人のようなものだと思ってしまうのは、間違っているだろうか?
ここでいわゆる輪廻転生の話を離れて、そのへんに転がってる「物」に立ち返ると、そういう物は普通に輪廻転生してるというのは、誰もが納得できることだと思う。石油はプラスチックになりペットボトルになり、溶かして再利用してまたペットボトルになり、もしくは別の形状になる。人間の死体も魚が食べれば栄養になって魚の体になり、その魚をまた人間が食べる。これも輪廻転生といえば、輪廻転生だしね。
だけど一般的な輪廻転生とは、やっぱりそういう「物の移り変わり」ではない。自我であり、魂であって、言い換えれば、情報ということになる。「自我や魂は情報じゃねぇよ」と言う人もいるかもしれないけど、自我を自我のままにコンピューターに移す研究がすでに進んでいることを考えれば、情報と言うことは十分に可能なのだと思う。
その情報が主体性を維持したまま新たな身体や場所へと移ることが、一般的にイメージされるところの輪廻転生だろう。
では改めて、インド文化圏における輪廻転生とは、一体何なんだろう?
この話、ぐぐってもいいし本屋に行って仏教書やスピリチュアル書を漁ってもいいけど、それこそ千差万別でみんな好きな意見を書きまくってるんだよね。
仏教でよく使われるのは、「火が、薪(たきぎ)から薪へと燃え移るようなもの」 という喩え。薪が燃えているから、火がある。薪が尽きれば、火も尽きる。別の薪に燃え移れば、また燃え続ける。
じゃあ最初の火と後の火は同じ火かと言うと、ブッダはその問いかけは無意味だ切り捨ててしまう。Aさんの死によって起きるBさんへの輪廻転生は、自我の継続とはとても言えないんだよね。それどころか元の火から三本の木へ火を移したら、それは全て、最初の火からの転生と言えてしまうことにもなる。Aさんを構成していた何かは、BさんにもCさんにもDさんにも同時に転生してしまえることになる。
つまり、同じ過去生を共有する人が複数存在しててもおかしくないってことになるのよ。それどころか、たとえばBさんはAさん50%その他の人50%で構成されており、CさんはAさん10%その他の人90%で構成されててて、BさんとCさんのその他の人部分は全く重なってないなんて話もあり得る。
缶コーヒーとカルピスとコーラを一緒にし、よく混ぜないですぐに3つのコップに分けたら、均一ではない変な味の飲み物が3つ出来るはず。その3つは缶コーヒーとカルピスとコーラという前世を持つ新たな飲み物というわけ。
これ以上僕がこの話を突き詰めるのは僧侶でもなければ仏教学者でもないのであんまり意味が無いと思う。より詳しく知りたい人は専門書を読んでください。
そのうえでこの記事で、インド文化圏の宗教や仏教が、なぜ輪廻転生を厭うものと考えそこから抜けださねばならないと考えたかというと……もう「やさしさ」しか無いんだよなぁというのが、個人的な結論。
普通の人がたとえば老後のためにお金を蓄えるのは、それこそ自分という自我が継続するという大前提があればこそだよね。無関係の人間のためにお金を蓄える努力は、普通はしない。
では子供のためにお金を蓄える……子供だってしょせんは他人だけど、これは普通にする行為。他人だけど、自分のDNAという情報を継ぐ存在、自分という火から生まれた新たな火のためには、人は努力する気になるということだろうか。
これが親戚、友人知人、近所の人、同じ街の人、同じ県の人、同じ地域の人、同じ日本人……と範囲を大きくしていくほど、親近感やその人のための骨身を削ってあげようという意識は薄れていく。地球の裏の災害や戦争となると、かわいそうだなぁとは思いこそすれ、我が身のこととして考えることが、どれだけ出来るだろうか?
さらに言えば、自分が死んだあとの輪廻転生先については? 日本人の場合ただでさえ輪廻転生についての実感が無いのに、自分が存在したり行動したいろんなものが輪廻転生を引き起こす力となり、来世になんらかの形で結実するとして……それにどこまでの親近感を覚えることが出来るだろうか? 難しくない?
こうなると、なぜインド文化圏の人たちがそこまで輪廻転生を認めつつも忌み嫌い、解脱や涅槃を目指したいと思うようになったのか、わからなくなる。同時代に生きる地球の裏の人の苦難も「かわいそうだ」程度しか感じないのに、どの時代、どの世界かもわからない輪廻転生先の「他人」の苦しみを想い、四苦八苦のその苦しみを再び生み出さないため、今の自分が努力して修行し解脱涅槃に至る必要は、どこにあるんだろう?
地球の裏の人々の苦しみを我が事と考え本気で同情出来る人なら、もしかしたら、来世に生まれる「他人」に同情的になれるかもしれない。それはもう、どこまでやさしくなれるかどうかでしかない。これ以上新たな苦しみを生み出さないという「やさしさ」を持てるかどうか。
それを持てる人は立派だなとは思うけど、我が身に引き寄せて考えると、「いや、どうでもいいかな……」と思ってしまうんだよね。自分自身が「こんな貧困だ格差だという世界に輪廻転生させやがって、前世の俺のバカ! この野郎!」という怒りを覚えるならまだしも、それもないし。そもそも前世の記憶もないし。
輪廻転生を苦しみと捉え、それを断絶させる必要がある、解脱涅槃に至らねばならないと思い修行に邁進できる人は、やさしい人なんだろうなと、自分は思うのです。
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