はいからさんが通る。
先日、初めて東京宝塚劇場に足を踏み入れた。
花組公演、『はいからさんが通る』。
上京して3日目くらいに、初期設定を終えたばかりのパソコンで先着順方式に挑み、初めてチケットを取ることが出来た。
新生花組!
明日海りおさんが大好きな私にとって、花組は特別な組だ。
プロローグの幕が上がる瞬間の華やかさ、組子の皆さんのきらめきに、目を奪われる。
柚香さんは、なぜあんなに発光しているのだろう。
声、好きだなあ。
れいはなの多幸感、素敵すぎる。
私も冗談社で働きたい。
シベリアの場面のマイティーに鳥肌が立ち、1幕ラストに大号泣し、フィナーレの聖乃あすかさんに撃ち抜かれて帰路についた。
すみれ色の袋をひらくと、予算をはるかに超える枚数のスチールが入っていた。
原因は、キャトルで流れていたEXCITER!!の華やかな調べだと信じたい。
花村紅緒という生き方。
華優希さん演じる、花村紅緒。
彼女の生き方について、最近憑かれたように考えている。
紅緒の身にふりかかる出来事は、冷静に考えたらかなり深刻だ。
誰しも婚約者と離れたくはないし、あらぬ疑いをかけられるのも御免である。
でも、紅緒を見ていると、なぜか元気になる。
どうして彼女はいつも笑顔で、きらきらしていられるのだろう?
自分の生き方を自分で決めているから、というのが、私が出した答えだ。
彼女の行動の尺度はすべて、自分の本心である。
自分が愛したものに全力で向かい、運命を全力で乗り越える、
という芯の部分で、決して揺れることがない。
一見、自由で楽しそうに見えるけれど、それってとてもエネルギーがいることだ、とつくづく思う。
物事に対する選択肢が広い現代でさえ、将来について考え、履修選択に悩みまくった大学生が、必死にnoteを綴っている。
ましてや、自由の範囲が今よりずっと狭かった当時、それでも意志を持ち続け、自立し続けることは、どれほど困難を極めただろうか。
・・・今の時代に紅緒がいたら、現状にどのように立ち向かうだろう?
きっと、今しかできないことを考え出すのだろうな。
紅緒の生き方に、何だかとても憧れた。
観劇翌日、なぜか宝塚版・紅緒風の黄色のワンピースを買ってしまった。
形から入るのはよくないかもしれないけれど、いつか彼女のように、自分の心で走り続けられるひとを目指したいな、と思う。
時は大正、ロマネスク。
『はいからさんが通る』は、基本、ときめきと華やかさに溢れた物語だ。
しかし、時折はいるBGMの不穏さに、背筋がぞわっと寒くなる。
あの作品の舞台が大正浪漫華やかな時代であることが、気がかりでならない。
震災から立ち上がった彼らの行く末を言祝ぎつつ、脳裏をかすめる不安。
物語の10年後、20年後、東京に何が起こるか、考えてしまう。
・・・少尉は無事だろうか。
冗談社の雑誌が、凄まじい検閲に遭う時代が来るのだろうか。
高屋敷先生は、作家を続けられただろうか。
鬼島さんと環さまは、どうなるのだろう。
フィクションにこのような邪推をしてはいけないのかもしれない。
でも、希望にあふれ、ひらひらと手を振った環の華やかな笑顔が、私の頭から離れない。
自分勝手な私は、自分の身近に問題が迫らないかぎり、様々なことに無知になってしまう。
好きな俳優さんのインスタを見て初めて、他国の政治情勢の複雑さを知った。
友人が留学して初めて、大統領選挙の結果を細かく調べるようになった。
それは今回も同じで、紅緒の涙を見て初めて、私は、大正時代の影の部分に思いを馳せた。
身近な人を思うことは、その人を通して世界を俯瞰することに繋がるのかもしれない。そしてそれが、少しは世界のありようを変えるのでは、とふと考える。少なくとも紅緒はそうやって、大正という時代を駆け抜けてきた。
時は令和。
自転車には乗れないけれど、紅緒のように懸命に、毎日を駆けてみたい。