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[絡]| 青ブラ文学部
#謦咳に接した記憶
#青ブラ文学部
山根あきらさんの企画に参加させてもらいます
(本文約2,024字)
室谷純様
まず、突然このようなお手紙を差し上げます非礼をお許しください。
先ごろ他界されたS先生のお話を伺いたく筆を執りました。
生前、先生は弟子を取らないどころか生涯誰も寄せ付けませんでしたが、唯一の弟子と思われるのが室谷様です。
誰も知り得ないS先生の人となり、S先生の謦咳に接した記憶など、如何程のものかと存じます。
不躾なお願いであることは重々承知しておりますが、公の場でS先生についてお話いただけないでしょうか。
S先生のご高名を傷つけないと、室谷様がご判断した内容で構いません。
ご一考願えませんでしょうか。
何卒宜しくお願い申し上げます。
◯月◯日
維靭糸保護会代表 牧野朝子
山奥の小屋で独り暮らす室谷純の元へ牧野朝子からの手紙が届いたのは今朝方のことだった。
維靭糸保護会。
S先生の没後、先生の功績を讃えて作られた会の名前が記されていた。
─S先生
とうに失くした感情が不意に込み上げてきて、純の視界は少し霞んだ。
室谷純は、かつて様々な生活雑貨を取り扱うメーカーで営業として勤務していたのだが、ある時【商品開発部】へ異動となった。
営業経験しか無い室谷にとって、辛苦以外の何物でも無い商品開発部での日々。
─辞めて営業の仕事を探そう
そう思い始めていた頃、社長から直々に呼び出された。
「室谷、S先生の所へ行ってくれないか?」
S先生は確かな腕を持つ職人なのだが、気乗りのしない仕事は決して引き受けず、気難しいことで有名だった。
「S先生って、維靭糸から布とか作っておられる方ですよね?」
「そうだよ。ウチの製品にも維靭糸を取り入れたくてね。災害時に役立ちそうな物を考えてる。例えば、水に入れると簡易の船になるようなものとか。先生の糸は撥水性に優れ尚且つ強靭なんだ。」
「大役ですね。私で大丈夫でしょうか。」
「室谷、キミは商品開発部で苦労しているだろう?本来は営業畑の人間なのに。そういう人の方が良いと思うんだ。」
分かったような分からないような説明だったけれど、社長からの直々の話であること、これまでより高給を得られること、何より商品開発部での日々から抜け出せることで、純は快諾した。
S先生の家は
─雨風がしのげる程度の荒屋だった
滅多に人が入ってこないような山奥にポツンとあった。
「S先生、〇〇社の室谷純と申します。今日からこちらで働かせていただくことになりました。」
少しの風でも飛ばされてしまうのではないかと思えるような痩せ細った体には似つかわしくない、力強く異彩を放つ目。
それがS先生だった。
「君のことは聞いているよ。仕事といっても、私の補助と細々とした家の事だけだ。まぁノンビリすればいい。」
気難し屋という噂は何だったのか。
「あの、先生。失礼を承知で申し上げますが、蜘蛛の巣がすごいですね。掃除しておきます。」
「あぁ、それはしなくていい。私の糸はね、蜘蛛の糸からヒントを得て作っているんだよ。」
蜘蛛の糸を参考にしていたなら強靭さや撥水性も頷ける。
「室谷さん、今日からあれが君の寝床だ。私の糸で作ってある。大人の男が寝ても大丈夫だ。君のような細身の女性ならまず心配ない。」
見上げると、ハンモックが天井から吊るされていた。
S先生は様々な蜘蛛を交配させ、特殊で強靭な糸を紡ぎ出す蜘蛛を大量に飼育していた。
純は女性には珍しく、虫の類が好きだった。そのことも適任だったのかもしれない。
しばらく寝食を共にしていると、S先生は人間らしい生活に必要な最低限の部分だけを残し、それ以外を糸の製造に全振りしていることが分かった。
もともと痩せていたが、食も細く仙人のような風貌になっていく先生が、純は心配になった。
「先生、何か精のつくものを召し上がった方が良いのではないですか。」
「心配しなくて大丈夫。それよりも君は蜘蛛たちのことだけ考えてくれ。」
蜘蛛たちの餌の作り方、紡ぎ出された糸の採取方法、先生は長年の研究や技術を惜しみなく純に伝授した。
「室谷さん、ここに書いてあるものを町で買ってきてくれないか。」
「分かりました。すぐ戻りますので。」
数時間後、家に戻った純が見たのは、蜘蛛の糸を体中に巻き付け、大きな蜘蛛の巣に絡め取られて息絶えたS先生の姿だった。
軽くなったS先生を巣から降ろすのは容易だったが、よく見ると巻き付いた糸はS先生の体から紡ぎ出されたものだった。
強靭な先生の糸を取りながら、今更のように涙が溢れ出した。
「以上がS先生について私がお話できる全てです。ご清聴ありがとうございました。」
割れんばかりの拍手が会場に響いている。
後ろの扉の前に立っている牧野朝子も目を潤ませていた。
─S先生、見えますか?あの文字
〜S先生ありがとう〜
【維靭糸ボートにより命を救われた人の会】
室谷純様 講演
(終)
山根さま、長くなってしまいすみません。