一芝居(ショートショート)
朝ご飯を済ませ、一人分の洗濯物をハンガーに干していた。
北関東に住む私は72歳になり、定年して悠々自適な夫と夫婦水入らずの生活になった。
40歳独身の息子は、勤務していた地元の自動車メーカー工場がこの街から撤退したため、2年前に東京のメーカーに転職した。そのときから息子は港区のマンションに一人暮らしするようになり、ここ一年帰ってくることはなかった。
夫は5日前から務めていた会社の元同僚たちと1週間、別府の温泉に出かけていた。
私はこのあと掃除を済ませたら、歩いて10分ほどのスーパーに日本酒を買いにいく予定だった。先週から売り切れになっていた夫の大好きな日本酒がきょう入荷されることを知っていた。
電気掃除機に手をかけたときだった。
電話が鳴り、出てみる。
「はい、もしもし」
「あの、こちらは弁護士の田中と申します。急いでおりますので要件のみを申し上げます。お宅の息子さんが通勤電車内で女性のスカートを携帯で盗撮して捕まりました」
「えっ?」
「結論を申し上げます。今、被害女性と示談の交渉中でして、示談金30万円で解決できそうなんです。今から私の代理の者がそちらまで取りに伺いますので、30万円ご用意しておいてくださいますか」
「あっ、あのー、私の息子にかぎって、そんなことするはずありません。何かの間違えではないんですか! 純一に代わってもらえますか!」
私は間違えであってほしいと願った。はやく純一の声が聞きたかった。
「ジュンイチさんは現在、携帯を没収され取り調べられています。ですから、弁護士の私がお伝えしているんです。今まで訴えると言っていた被害者もようやく示談に応じてくれたんです。これを逃すと、きょうを逃すと勤務先にもバレてしまいますよ」
リビングの壁を見る。純一が携帯の風景写真コンテストで銅賞をもらった賞状をみつめた。
「会社に黙っててくれるんですか」
「はい、示談金さえきょうもらえれば先方は内密にするとおっしゃってくれています。先方の気が変わらぬうちに示談金を渡しましょう。これから私の代理の鈴木という者がそちらまで取りに伺いますので、30万円用意してもらえますか」
「・・・わかりました。では、お金はATMでおろしてきますので、30分待ってもらえますか」
「はい、では1時間後の11時に」
電話を切ると、私は急いでスーパーの隣にあるATMへ向かった。
――30万円で会社に知られず解決できるなら安いものだ。
私は腹を決めた。そろそろ結婚を意識した彼女の存在も息子から聞いていた。
すぐATMから30万円を引き出し、持ってきた手さげカバンにしまった。
スーパーの前に来ると、買い物する気になれないものの、弁護士の代理の人が来るには時間にまだ余裕があった。夫の好きな日本酒は一升瓶の一回り小さい瓶だが重いし、日本酒だけ買って行こうとスーパーに入った。レジをすませ、かごの日本酒をレジ袋に入れようと持ち上げたとき、スーパーのサッカー台の壁に貼ってある広告が目に入った。
『オレオレ詐欺に気をつけて! 息子を語った電話を本気にしちゃダメ! 現金を手渡したり、振り込む前にこちらから本人に確認してみましょう。本人に確認取れない時は家族に相談してみましょう』
――えっ、まさか。えっ、オレオレ詐欺? えっ、ダマされてたの? すぐ家に戻って、純一に電話してみよう。
日本酒のラベルを見る。
――つながらなかったら夫の携帯にかけて相談してみよう。
私はスーパーをあとにした。
急いで家に戻る。
純一の携帯に電話したが、出なかった。
――まさか、本当に捕まってるの?
不安になりながら、今度は夫の携帯にかけてみた。
「あっ、あなた! よかった。つながった」
「なんだい、どうしたんだ」
「今朝、電話があったのよ! 純一が盗撮で捕まったから示談金30万円を用意しろって。弁護士の人から。弁護士の代理の人が取りに来るから、私ATMで30万円おろして家に戻ってきたのよ。これってオレオレ詐欺?」
「えーーー。渡したのか?」
「いや、11時に約束してるから、まだ代理の人は来てないわ」
「よく渡す前に気づいたな。危なかったな。その手のオレオレ詐欺は流行ってるから信じちゃダメだとあれほど言ってただろう!」
「わかってるわよ! そんなこと。でも実際電話が来たら本当のことかもって信じちゃったのよ。怖かったの」
「・・・わかった。それはそれでもういいから。これから犯人が家にやって来るんだな。絶対に現金を手渡すんじゃないぞ」
「そんなことわかってるけど、犯人が家に来るって思っただけで怖いわ」
「あと、30分か。よし、わかった。すぐ俺のほうから警察署に電話してみる」
「ええ、あなたお願いね」
「もしかすると警察がちょうど間に合って、玄関で現行犯逮捕できるかもしれん」
「間に合うの? 怖いわ」
「俺が警察に電話したら、警察から電話があるだろう。警察の指示を聞いて、そのとおりに動きなさい。そのまえに犯人が家に到着したら絶対に現金を渡すんじゃないぞ」
「わかったわ。やってみる」
私は30万円の入った封筒を手さげから出し、リビングのテーブルに置く。
足が震えているのがわかった。
純一の写真コンテストの賞状をみつめた。
電話が鳴った。
「はい」
「警察の者です」
「あー、よかった。間に合ったのね」
「はい。現在、弁護士の示談金詐欺集団が市内に電話をかけまくっています。先週5件、今週8件の被害届がありました」
「やはり、詐欺だったんですね」
「はい。そこで、奥様にご協力をお願いしたいのですが」
「はい、なんでしょう」
「今週から、事前に警察にご相談をいただきました件につきまして、おとり捜査を開始しております」
「おとり捜査?」
「はい、一芝居うってほしいのです。つまり、ダマされたふりをして弁護士の代理と称する者に示談金を手渡してほしいんです。うしろには私服警官が張り込んでいますので、ご安心ください。現金をカバンに入れて家の門を出たら即逮捕いたします。示談金詐欺の被害をこれ以上増やさないためにも、弁護士の代理と称する受け子を次々に逮捕して、詐欺集団を壊滅に追い込みたいのです」
「ええ、・・・わかりました。でもできるかしら」
「『息子をよろしくお願いします』と言って現金を託せば、受け子はバレてないと安心しますから、大丈夫です」
「わかりました」
インターホンが鳴った。
封筒を手に取り、立ち上がって時計をみると、ちょうど11時だった。
私は恐る恐る玄関のドアののぞき穴を覗いた。
玄関前に立っていたのはすこし大きめの黒のスーツに身を包んだ青白い顔をした青年だった。
恐る恐るドアを開けてみる。
「はい」
「田中弁護士の代理の鈴木と申します。示談金の件ですが、ご用意いただいておりますか」
「はい、用意しております。息子は大丈夫なんでしょうか」
「はい、示談金ですべて解決できると思います」
「そうですか。それではこれで息子をよろしくお願いします」
私は示談金30万円の入った封筒を鈴木というスーツの男に手渡す。
鈴木は手の甲が半分隠れるほどのスーツの袖の丈から手を伸ばし受け取った。中をざっと確認してからそそくさと持っていたカバンに封筒を入れた。
「たしかに示談金30万円をお預かりしました。それでは、弁護士の田中に届けに行ってきます」
「よろしくお願いします」
私は手を前に合わせ頭を下げた。
鈴木は玄関のドアを開け、外に出て行った。
私は一芝居うった。怖かったが、なんとかバレずに演技ができた。
門の音がした。
私は外が気になり、サンダルを履いてドアを少し開けて外を眺めた。
スーツの鈴木が門を出てすぐにカジュアルな服を着た大柄な男たちに囲まれていた。
鈴木の両側に2人が立ち、鈴木の腕を両側からつかんでいる。うしろの一人が鈴木のスーツの上から腰付近のベルトらしきものを握っていた。
鈴木が私服警官たちに捕まったようだ。道路の向こう側に停車していた黒い車に私服警官らとともに乗せられた。
4人目のグレーのジャケットを着た男がこちらにやってきた。
私は思わず玄関を出た。
「刑事さん!」
「はい、奥さん。ご協力ありがとうございました。無事に犯人逮捕できました。示談金詐欺の受け子は今週これで3人目を逮捕できました」
「あっ、そうですか。よかったです。怖かったんですが、なんとか言われた通りできました」
「ありがとうございます。それと、示談金のほうですが、一時お預かりして署で犯人と一緒に証拠写真を撮ってから、お宅にお返しに来ます。午後早めに伺えると思います」
「はい、わかりました。お願いします」
刑事は走って道路の向こう側で待つ車に乗り込んで、車は動き出した。
私は肩から力が抜けた。どっと疲れが出た。
リビングに戻り、ポットから急須にお湯を入れ、お茶を一口飲んだ。
インターホンが鳴った。
玄関に行き、ドアを開ける。
「警察ですが」
ベージュのジャケットを着た小柄な私服警官と紺のジャケットを着た中肉中背の私服警官が立っており、先ほどとは違う人たちだった。
「あら、早かったわね」
「・・・・・・」
「もう写真撮ったのかしら?」
「はい? お宅の旦那さんからお電話をいただきまして。こちらからお宅に電話をかけていたのですが、ずっと電話中のようでしてつながらなかったので先にお宅に伺いました」
「はい、電話があって指示通り演技しました。たった今、ほかの刑事さんが犯人を捕まえましたよね」
「しまった! 遅かった」
ベージュのジャケットの警官がそう言うと、二人で顔を見合わせた。
後日、警察から説明を受けた。
示談金詐欺集団はまんまと一芝居うって、詐欺を成功させた。
東京から電話してきた弁護士の田中も受け子の鈴木も、示談金を手渡すように一芝居うてと電話をかけてきた警官も、鈴木を捕まえた私服警官たちもみんな市内に拠点をもつ詐欺集団の仲間だった。
地元の自動車メーカーが撤退し、大量の従業員が職を求めて東京に進出した。その情報をもとに詐欺集団が名簿を入手し、市内で電話をかけまくっていたことがわかった。