環境・地域・都市・社会運動などの読書記録・その5
酷暑やコ■ナ、その他雑務でだいぶ参っている。いつものことと言えばいつものことだけども……。
やたら分量が膨れてしまった気もするが、コンパクトにまとめる力がなくご容赦……。
過去のエントリは次のとおり。
「環境・地域・都市・社会運動などの読書記録・その4」
https://note.com/umaumareport/n/n9827ba041c01
「環境・地域・都市・社会運動などの読書記録・その3」
https://note.com/umaumareport/n/n273298f85b5c
「環境・地域・都市・社会運動などの読書記録・その2」
https://note.com/umaumareport/n/n9794b3ecfd6a
「環境・地域・都市・社会運動などの読書記録」
https://note.com/umaumareport/n/n8dd74fd5b9ac
・宮内泰介編,2006,『コモンズをささえるしくみ――レジティマシーの環境社会学』新曜社.
各論稿で取り上げられる対象はかなり多様で、だからこそコモンズの話も、レジティマシーの話も、奥行きを持った概念になっていくのだろうと思う。自然環境に限らず、歴史的環境やアメニティであっても、コモンズ論の射程に入るのであろう、という印象を持つ。本筋から外れるかもしれないが、人と人のかかわる結節点として、なんらかの参加の契機として、これらの対象(ないし〈環境〉)はあるのだろうと思う。
取り上げられる対象が多様だと述べたが、「漁業権」「坂網猟」「写し巡礼地」「阿蘇の草原」「帯広のヌップク川」「西陣織の音環境」「ナマコ」「伊丹空港の不法占拠」「墓地山開発」が各章の対象となる。
いくつか印象に残った話のみ。例えば第2章、歴史性の話は興味深い。ラムサール条約に登録された石川の片野鴨池では、伝統的な鴨猟である坂網猟がおこなわれ、継承されてきた。この坂網猟に関する「300年の歴史」言説が、「自然への働きかけや利用を前提とした自然保護のあり方の「理想的」な姿として」(p.62)語られ、高く評価されている。ところで、「300年の歴史」言説は、実際のところどのような歴史的根拠を持つのか。第2章ではこの歴史的根拠をめぐって、議論が展開されていく。詳細は省くが、曖昧かつ明確でないイメージや言説が、(明治期を端緒として)少しずつ肉付けをされ、あるいは書き加えられていく様子が描かれていく。
実在する村田源右衛門に、武士坂網猟創始伝説が付会され、よりリアリティが付与され、「歴史」としてその物語は強化されていったのである。それは、明確な意図によりなされたというよりも、当時の人びとが、自己の主張、自己の要求、自己の立場の「歴史」的正当性(レジティマシー)、つまり正統性を構築するために、自然と選択した手法であったと考えるべきであろう。この加除訂正は、用意周到に謀られた「歴史」の改竄ではなく、人びとがある状況に迫られて自然と行った「歴史」の組み換えなのである。(pp.72-3)
なぜ「そうせざるを」えなかったのか。それは、明治期以降において、旧武士層が坂網権の権益の正当性を主張するためでもあった。他にも様々な要因があるが、旧武士層とは異なる異質さ(アクター・制度)に対抗する(pp.76-7)ための手段や方法として「歴史性」が動員された、と言えるのだろう。そしてこの「300年の歴史」言説は、いわば「旧武士層の優越」から「長く続いてきた」ことそのものを根拠づけるための、正統性をめぐる基盤へと変容していくことになる。
「歴史(性)」がなんらかの正当性/正統性を確保するための資源とされていくその状況を、まずは歴史のプロセスとして捉える作業が必要であり、さらには、そのプロセスを追うなかで、どのような「正当性/正統性」が要請されていくのか、追う必要があるのだろう。
理論的には、「公共性」をめぐっていろいろと考えることができそうだと感じた。例えば、第5章のヌップク川の事例、第8章の伊丹空港の事例、第9章の墓地山開発の事例は、「公共性」の論点が前景化しているように思う。
第5章のヌップク川の事例については、「公と私の間の微妙なバランス」「共同性からの公共性の構築」(pp.146-7)が論点となる。第8章については、「経済的な再配分と文化的な承認を同時に達成するような環境正義に根ざした公共性」のあり方が模索されている。第9章の墓地山開発の事例では、墓地を守るという「私情」が切り開く「公共性」のあり方が提起されている。すなわち、雑駁なまとめにはなるが、開発に基づく公共性とも、「文化財保護のため~」というような公共性とも異なる「公共性」のあり方が見過ごされてきていないか、という問題提起でもあるだろう。
・小笠原勝,2021,『雑草害――誰も気づいていない身近な環境問題』幻冬舎.
今度こそ手短かにまとめたい。現在、実家に避難している。実家の周りに生えてくる雑草に割と悩まされている。そんなある日、同書を書店で目にして購入した。雑草と一口に言っても知らないことばかりだった。通読して知識として定着しているかとそうでもないのだが、「雑草からみる社会のあり方」をある種描いた本かと思うし、その視座だけでも覚えていれば良いかとも思う(いいのか?)
ざっくりとした話になり恐縮だが、雑草の除草をめぐって、例えば雑草によって農業の収益性が下がっているのではないかという話、そして除草のための時間や人件費もなかなかバカにはならないという話は、ある意味説得されるところもある……。
ただ、雑草抜きの作業も無駄なように見えて、実はそこに愉しみがある……のような議論もありそうな気がする。もっとも自分も楽できることは楽した方が良いとは思うが。
一応雑草の「有用性」についても紙幅を割いて紹介されており、特に個人的に興味を持ったのは、「雑草を用いた重金属汚染土壌の修復技術」であった。余談だが、土壌汚染の環境史や土壌汚染からの原状回復の現状に関心があるが、特に後者についてはほぼ人文畑の自分としては協力できることは何もなく……(ボランティア等でかかわる機会を持てたら良いのだろうか)。この技術にはなんらかの可能性がありそうだと思った。
他にも、地域振興のための雑草管理センター構想もおもしろくはあったが、いわゆる若い人は興味を持ってくれるのだろうか(高給ならありえるのか?)。個人的には、農学、とりわけ雑草に関する知識を高等教育でどう伝えるか、同じ章で言及されていたこの論点はかなり重要だと思った。自分のような人文畑の人間がふとしたきっかけで雑草ないし農学に関心を抱いたときに、少し学びなおせる機会があればとも思った(もっとも、自分の場合は学びなおしの機会があっても適切に活かすことができないのだろうが……)。
・国立公園研究会・自然公園財団編,2017,『国立公園論――国立公園の80年を問う』南方新社.
国立公園の歴史や現状について知りたく、とりあえず通読。座談会やデータ集もあり思ったよりは読みやすい。もともと雑誌『國立公園』に連載されていた記事が初出。
興味深かった話をいくつか。2017年に指定された奄美国立公園は、当初から国立公園関係者に評価されていたわけではなかった(p65)。まず、奄美の風景の特徴は次のとおり。
①島嶼の海岸海域の風景
②亜熱帯照葉樹の森と特殊な生物相の風景
③人が濃密に関わってできた、いわば環境文化的風景(p.64)
しかしながら、「低山が連なる照葉樹の森、島であり、海岸海洋風景を含めても、スケール感、地形的な劇的さに欠けるとの捉え方が、専門家においては主流であった」(p.65)。つまり、国立公園の評価に関しては、富士山などの高い山々が高く評価されてきた、ということになる(p.66)。望ましい「風景」観が拡張していくこと、変遷していくことがわかる。この点については、西表国立公園も同様であろう(希少な野生動植物の生息生育地、海中の景観(p.79))。
社会科学の観点からの論稿としては、田中俊徳「『緑の三角形』を創る:法と歴史と政策の一〇〇年」がある。現状と課題について、コンパクトではあるが、ある種の総説的役割を果たしているとも思う(特にp.156)。
日本にはアメリカのような「緑の三角形」がつくられてこなかった。すなわち、政官民学の連携に基づき自然環境保全と地域の持続的発展(p.159)を駆動させる仕掛けが日本では十分ではなかった。この問題提起のもと、アメリカの国立公園史を概観していくという流れになる。アメリカの国立公園においては、国立公園局初代局長ステファン・マザーの果たした役割が大きく、「マザー体制における、国立公園の積極的なアピールによって「公共の支持基盤」の形成が奏功している」のである(p.161)。
国立公園のある種の曖昧さが、アメリカほどの「公共の支持基盤」の形成をうながしていない、そういう印象も持つ。この点、座談会(Ⅰ「連載を読んで」)のなかでのある発言(連載記事をめぐっての所感)が参考になるだろう。
一番感じたのは、国立公園はそもそも風景、景観保護から始まっている。その保護は、誰のための保護なのか、どの立場で書かれているのかが、よく見えないところがありました。
地域にとっての国立公園なのか、国民にとっての国立公園なのか、国として地球としての国立公園なのかがわかりにくい。それが、もしかしたら何のための国立公園制度なのかがわかりにくい原因になっているのではないかと感じました。(p.167)
奄美国立公園や三陸復興国立公園は新しい国立公園を考える手がかりにはなるだろう(p.167)。その一方で、上記のような「支持基盤」を形成するためのアピールを担う存在は見えにくいようにも思う。それは日本の制度の経路依存性からするともはやどうしようもない点かもしれない。
と、ここまで書いたところで、だいぶ国立公園制度の内部者目線でものを考えてしまっていたかもしれないと思い直す。国立公園制度の内部にいる/近しい人々の言説で構成されている書籍であるから、地域と国立公園との関係などは、各自の関心に応じて掘り下げていく必要があるだろう。
他にも、座談会での人口減少社会における公園管理のあり方、公園の保護と利用のバランスのような話も大変興味深かった。
・森久聡,2016,『〈鞆の浦〉の歴史保存とまちづくり――環境と記憶のローカル・ポリティクス』新曜社.
だいぶバテてきたので、省エネで。前々から読もう読もうと思いつつ積んでいたのだが、ようやく通読。
都市社会学、環境社会学、文化社会学、隣接分野の隙間というか結節点を探る印象を持つ。
本書は都市/地域社会学と環境社会学の交差する場に「空間と政治の社会学」として問題を定位し、環境(空間)・記憶・政治を分析軸に据えて考察を進める。その意味で本書の試みは、環境社会学から再び都市/地域社会学へと折り返していくものである。(p.45)
この事例の保存運動については、年齢階梯制というか年長者にいかに配慮するかが肝になっていたようだ。某会の取り組みについては、例えば推進する親世代との板挟みにならざるをえない状況があったりする。そこでは理詰めでの反論がしにくい。だからこそ、「このように、慎重に相手のおかれている状況を理解したうえで意見の調整をすること、鞆港保存において年長者の優先が基本的な考え方であると前置きしたうえで、対立する年長者への配慮を見せる」(p.136)必要がある。
そして埋め立て・架橋計画が鞆の浦の歴史的環境を破壊するかどうかが問題ではなく、あくまで年長者にとって必要な事業かが判断基準であると述べ、「後からでも橋を壊しゃあええ」とさえ言い切る。(pp.136-7)
同会の取り組みの箇所を見るに、地域内に推進側/反対側が共に生活しており、かつ世代間で地域に対する歴史的な意味づけも異なる、さらには地域活性化についての思いも異なるなかでのものごとの決め方には特徴があると感じる。それは、「言論の〈正統性〉だけでは動かない地域社会のしくみであり、地域社会が受け継いできた〈正統性〉」(p.138)である。
このような年齢階梯制や合議制の伝統がある(と想定される)からこそ、訴訟にもつれこんだ際の感情的な対立が大きくなるわけで、他方、年齢階梯制から外れた保存派の一部による適法性にかんするテクニカルな指摘が結果的には事態を大きく動かすことになったのではないか、と個人的には思う。
p.145の表6.2を見てもらうとわかるように、この事例における「計画への賛否」「社会層」「政治的地位」「居住地区」「鞆港との関わり(空間的記憶)」は非常に細かく、これを整理する作業の大変さを感じてしまう。このnoteではまとめきることができないが、社会層ごとに利害関心が異なり、政治的なスタンスも異なってくると、空間に関する意味付けも、また蓄積されてきた記憶も異なってくるのだろうと思う。
・高久聡司,2014,『子どものいない校庭――都市戦略にゆらぐ学校空間』勁草書房.
空間に対する欲望や望ましさのせめぎあいについての歴史社会学的研究と言えば良いだろうか(ミルズ、ドゥルーズ&ガタリ、フーコーなど最初に参照されている)。いくつか引用のみ。
校庭は政治的空間であるという本書の主張は、「子どものため」という論理の「脆さ」とそれゆえの使い勝手の良さ(「強さ」)に起因して、さまざまな大人の思惑がそこに投げ込まれ、かつ、それが覆い隠されていること、それにより「子どものため」の空間をめぐる議論に「子どもがいない」ことを意味している。それは、「校庭芝生化」の多様な「効果語り」を私たちが受け入れているかぎりは、表には出てこない。だが、「校庭芝生化」は、多様な効果があるために現実化されるのではなく、自在に接合し、展開する「効果語り」を私たちが受容するなかで現実化されているに過ぎない。であるならば、「校庭芝生化」が受容されつつあるその背後に潜んでいる、「子どものため」の空間である〈校庭〉に「子どもがいない」という問題と真剣に向き合わなければならないだろう。(p.174)
校庭は「子どものため」の空間でありながら、「子ども不在」のままに教育、生活環境、都市問題などをめぐるさまざまな大人の論理が絡み合う空間である。つまり、学校空間の内部(教育環境)/外部(生活環境・都市)の問題――が交錯する政治的空間なのである。(p.185)
これは本筋から外れるが「○○のため」と言いつつ、「○○不在」であるという事例は他に何かあるだろうか(自分の関心ある事例に即して考えてあまり浮かばなかった。何かあれば……)。
この研究もまた、理論的視角は『〈鞆の浦〉の歴史保存とまちづくり』とは異なるように思うが、「空間の政治」をめぐる研究であると思うし、自分の関心の焦点がそこにあるのかなとも思った。たまたまかもしれないが。
・長谷川公一,2021,『環境社会学入門――持続可能な未来をつくる』筑摩書房.
日本の環境社会学がいかに環境社会学となっていくのか、その舞台裏を垣間見ることができる(類書としては『「問い」としての公害』があり、一緒に読んで良いと思う)。
長谷川先生の基本的モチーフが〈コンフリクトと社会変動〉にあること、吉田民人・富永健一・小室直樹・高橋徹(順不同・敬称略)との出会い、新幹線公害における共同研究、はじめての在外研究(受け入れがニール・スメルサー)などを経て、1990年に日本の環境社会学の制度的基盤が整備され(環境社会学研究会)、長谷川先生が「環境社会学者」として自覚をするに至るというプロセスがある。
社会学の研究者、いかに実践にかかわるか、いかに政策提言をするか、いかに市民と対話するか、いかに国際発信するか……という色々な課題を考えさせられた。
・宝月誠,2021,『シカゴ社会学派の可能性――社会的世界論の視点と方法』東信堂.
読書会で通読。とにかく長かった……。社会学におけるシカゴ学派の研究の多面性を(なんとなくであるが)感じることができた。もう気力がないので読んだ記録のみ。
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