田舎のムラの悪いところだけを凝縮した国
(はっきり言って愛ちゃんの話はとっかかりでしかなく実質的な内容は全く別のものになる)
この国は戦後、個人主義こそ正義と言う信仰を持ち、他人には関与しない、また他人は関与すべきではないと言う、実に誤った「消極的自由」を、追い求めるべき自由であると勘違いし、戦前の「自由のない国」から「自由な国」への方向転換を図った。
これが戦後民主主義と言う奴だ。
しかし、これに関しては問題点が2つある。
一つは、戦前の反省と言いながら、戦前と同じ人物が本当の反省を「省き」、寧ろ間違いをそのまま繰り返していると言う点、
もう一つは、個人主義と言う解りやすそうだがその実、とても定義が複雑なものを一つの言葉で無理矢理まとめたせいで、自由の長所と短所が曖昧化し、結果として自由の長所を捨て、短所を伸ばしたと言う点だ。
1つ目から詳述しよう。
戦前の反省
戦前の日本は、皇国主義による天皇主権、天皇絶対主義と、国粋主義による客観視の拒否、軍国主義による国家的な困窮、言論の不自由化、が発生したと、戦後の日本人は考えてきたし、そう教えてきた。
勿論、今目の前のコロナ禍を見ていたら、そんな国家による押し付けではなく、実態は真逆でメディアと国民の暴走だと理解するのは非常に簡単だ。
現実に、政府はコロナ対応の為に移動その他の制限を行う気はなかったし、それどころか現実に必要な状況も今の今まで全く訪れなかった。
しかし、年内に衆院選があることを見込んで、国民と敵対することは「大幅な議席減に繋がりかねないから」、少しずつ譲歩してきた。
当然、その発想自体は、「自分達の議席が一番」であり、「コロナ対応の確固たる信念、確信がない」と言う、情けない現実による。
それでも国民が絶対に忘れてはならないのは、政治家が自分達の利益に繋がらない案件で大幅に譲歩したのは結局、国民が望んだからだ、と言うことだ。
そしてその国民を煽動したマスゴミにしても、彼等は全く正義感はない。あるのは「売上」だ。不安を煽ることが、国民が自分達のサービスを、商品を利用すると踏んだし、実際に結果を伴ったから彼等はやっているのだ。
では国民は確固たる信念を持っていたか?
そんなことはない。国民が、空気を作って空気に支配されたのだ。
満州事変であっても、それを、軍の行動を支持したのは新聞であり国民だった。
国内において政治を批判して軍を礼賛していた国民と言う背景があったから、5.15事件、2.26事件が起きた。
政治家に期待できないと言う声が軍人への期待と変わり、禁じ手だったはずの軍部大臣現役武官制が復活し、更に政権運営が困難になってきた。
そうやって国民、メディア、政治、軍が政治的に手詰まりになり、指導力を失った時に、パワーバランスが崩壊し、破滅へと突き進んだ。この間、天皇は立憲君主制故に君臨すれども統治せず、で決定権は持たなかった。明治憲法としては天皇主権を謳っていたが、天皇自身が立憲君主として振る舞った為、そのようになった。
今のコロナ禍は結局この戦前の過ちをそのままきれいになぞっただけなのだ。
国民が無責任に政府を批判し、メディアがそれを勝機と見做して煽り、専門家がそれにお墨付きを与えて政治がそれに流された。
そしてついでに触れるなら戦後、憲法9条絶対主義になったのも同じメカニズムであり、決して戦前の問題点を反省したからではない。
これは断言せざるを得ない。
何故なら問題点の定義と分析と反省点を明確に示せる者がいないからだ。
「反省」がそれで済む訳がない。
そしてこれが戦後民主主義の基本的な構造と言える。
政治、メディア、国民から正義が一切消え去り、正義気取りの歪な道徳が跋扈する社会。
日本は戦前から何も良くなっていない。
個人主義、自由主義の誤解
次に、その戦後民主主義が陥った誤謬について触れてみる。
井上達夫はその著書において、リベラリズムについてこのように書いている。
消極的自由のような空疎な自由概念にリベラリズムの基礎を求めるという、リベラルな思想家もリベラリズム批判者も共有する偏見・謬見を打破して、次の二つの基本テーゼを提示し展開することにより、リベラリズムを再定義するのが本書の目的である。
(1) リベラリズムの根本理念は自由ではなく、自由を律する正義である。
(2) リベラリズムの制度構想としての権力分立は、国家内部の異なった権力作用を抑制均衡させる「三権分立」に止まらず、国家・市場・共同体という対立競合する秩序形成メカニズムの間の抑制均衡を図る「秩序のトゥリアーデ」へ発展させられるべきである。
我々が求めてきた自由とは、氏の言う
消極的自由のような空疎な自由概念にリベラリズムの基礎を求める
そのものだろう。消極的自由とは、誰かの介入を受けない、と言う点においてのみ自由なものを言う。
そこで出来上がった現実への評価より、誰かの介入や影響を受けていないことそのことのみ、と言う極めて形式的で空虚な自由主義のことを氏は批判している。
氏はそんなものより、自由を律する為の正義を議論し、創り、守るのがリベラリズムだと言っているのだ。
その通りだろう。自由そのものに価値はない。
価値があると感じるのは、束縛、抑圧されていると言う感覚があり、そのアンチテーゼとしてしか価値は生まれ得ない。
極めて相対的な価値でしかない。
絶対的価値とはなり得ない。
しかし、我が国ではそれ等を絶対的価値観としてしまった。
何故か。それは記述の「反省」の話にも繋がるが、国民の実感として、戦中の日本には自由が存在しなかったからだろう。
しかし、その原因をわざと取り違えた。
「国家が国民の自由を奪った為、戦前の過ちが起こされた。だから徹底して国家からは自由であれ!国家は国民に介入するな!」
と言う宗教が出来上がった。
既にここまで読まれた奇特な方々なら分かるだろうが、
空気を作って言論を封殺した主体は国家でも、政府でも軍でもない。
「メディア」であり「国民」だ。
その診断を誤るから、その後の処方箋が間違うのは必然だろう。
そして戦後日本は反国家主義が正義である!国家は国民の自由を奪わない為に口出しはするな!金とサービスだけ提供しろ!国民もその思想に従え!!
と言う全体主義に陥った。
全体主義とは、国家が国家の力、立法権や財政権だけでできるものではない。
民衆の意欲が何より肝心なのだ。
ナチス・ドイツは日本よりその点で理性的だったからそれを意図的に悪用したが、日本はただただ翻弄されただけだった。
どちらも国民性は真面目で融通がきかないから、愚直に正しいことをやると信じながら、「"間違い"を排除」していった。
国民全体の真面目だが馬鹿な相互監視が無ければこれは達成できまい。
そしてその空気が巨大化すると、人々は、歯向かっても無意味だと諦めることとなる。
今の日本はその巨大化した諦念がコロナ禍を作り出した。
日本の自由の位置
日本における自由の位置とはこのようなものだろう。
決してリベラルが大切にしている「とされる」個人の人権と称される諸権利を守る為に前提とされているものではない。
だから法的に問題のない愛ちゃんの不倫疑惑について堂々とその人権を踏みにじる。
それ等は「村の不文律を破ったと我々が見做した」からでしかない。
受ける代償も法が定めるものより遥かに大きい。
そしてこの一連の週刊誌報道は、完全なるプライバシーの侵害を民間の売文屋が、それを消費できるサービスとして提供し、実際に利益を上げるから行われているのだ。
不倫なんかよりよっぽど「倫(みち)」に背く行為だろう。
そんな行為を正義と信じて行う奴等には、まず自分の行為を省みろと言いたい。
その上で批判できる者のみやれと言いたい。
ただし、道徳を理由に誰かをバッシング、リンチするのはそもそも不道徳の極みだから本当に道徳的なものならまずやらないが。