躊躇、慎重、軽率
この馬鹿は躊躇なくやると、幼稚で恥ずかしいことを躊躇なく言える程の無能だ。
以前、三島由紀夫の『葉隠入門』と言う本で読んだことを思い出した。
その内容は上記ブログにある通りだ。
また本は下記。
「大事の思案は軽くすべし、小事の思案は重くすべし」
と言う言葉だ。
平素の内から物事を考えておき、緊急事には、そこからあれこれ考えるのではなく、それまでの思索の結果としての判断力に基づいて悩まず、果断に道を突き進むと言う姿勢だ。
小林よしのり氏もよく説かれるが、緊急事態にこそ、その人間の本質は顕れる。
普段から天下国家や、日常の生活について、どこまで、どのように考えているかがこう言う時に否応なく顕れる。
誤解ないように予め言っておくが、これを読んだ皆さんが「何も考えてない無能だ!」と言っているのではない。国家を背負う政治家やメディアその他の者に対して言っている。
政治家やメディアの本分がここだ。
つまりこれは、魚を知らない寿司屋くらいの無責任さでしかないのだ。
これを踏まえて、この馬鹿の浅慮を批判する。
政治家として、彼は長年閣僚を経験した総理大臣と言う立場にありながら、それまでの活動が全く洗練されておらず、自分でも何を考え、言うべきかを理解していない、ただ、世論が怖いからポーズだけはとっておく、それが彼の「躊躇ない」判断でしかない。
その結論に至るまでの日頃の思想的逡巡はどれほどあったろうか。
今彼が我々の目の前で選択している全ての"答え"は、その日頃の思想的逡巡の形跡は全く見えない。あるのは場当たり的で選択肢を大衆の言うがままに削りに削られた消去法的選択しか無かったのではないか?
「だから躊躇なく」と言う語を「躊躇なく」出せたのではないか?
この法律が与える影響と言うものを理解していたら、到底躊躇なくなんて語は出せるものではない。
そもそもこれを発出するのは、その「前」の戦略をしっかりと持ち、また共有した上で遂行し、それでも効果が得られず、「已む無く」やるものであって、あまり軽々しく「躊躇なくやる」なんて言うべきでない。
それこそ軽率と言うものだ。
軽率
何故そのような判断に至ったのか説明を順序立ててできるかどうか。それが本気度、思想の強さ、深さを端的に表す。
それができない奴、またできたようでも理屈が薄い、破綻した奴は、全て軽率でしかない。
軽率と果断は事象の発生から判断、行動までの時間と言う点で比較すれば然程差はない。
しかし、その決断に至るまでのロジックにおいては天と地程の差がある。
慎重
では、慎重に慎重にと判断を留保するのが良いのか。
そんなことはない。いや、そう言うと語弊がある。
慎重とは何かと言うと、一つの事由をもとに判断するのではなく、影響範囲を考え、様々な視点からの考慮をせよと言う話だ。
今の政府、総理の様な者の慎重とは、ただの躊躇であり、臆病でしかない。考慮している内容が自信のなさからの戸惑いでしかないからだ。言葉としてこれを慎重と言うのは不適切。
それではどうすべきか
ならば総理としてはどうすべきだろうか。
まずは自身が、いや、その地位にある、乃至すぐ就く者が誠実にコロナの影響について自分の頭で整理し、官僚や国民に説く言葉を持つことだ。選挙なんか恐れてはいけない。寧ろ選挙を恐れて大衆に迎合してはより長期化して批判を産むだけだろう。
秋に向けて、もっと根本的に見つめ直し、国民を説得するのだ。
指定感染症2類相当の扱いを止める。
普通のクリニックでもインフル同様抗原検査して、自宅での安静を指示すればいい。
今のやり方は、一人暮らしがスーパーに今夜の食材を買いに行く為に、2トントラックの使用を義務付けるようなことをしているだけだ。
こんな馬鹿げたルールが全てをおかしくしている。
総理には是非秋の選挙に向け、この方向転換をやって欲しい。
そうすれば感染者の報道も不要になる。保健所も負担が減る。感染者も医療へのアクセスが改善され、早期の治療にも繋がれば、隔離が不要な人々も自由に行動でき、経済や文化も日常を取り戻す。
これをやれるだけの「胆(キモ)」と「説得力」がある者がリーダーの資格を持つ。
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