
- 運営しているクリエイター
#福島第一原発
フクシマからの報告 2022年春 除染解体で消えゆくふるさと 福島第一原発3.5キロの商店街で 11年を経てゆっくり姿を現した破壊 これは戦争と同じではないのか?
下の2枚の写真を見比べてほしい。同じ、福島県大熊町にあるJR常磐線・大野駅の跨線橋に立って撮影したものだ。13ヶ月の間に、駅前にあった4階建てのビジネスホテルがそっくり姿を消した。
同駅は、福島第一原発から西に約3.5キロ。事故前は、原発に往来する人が利用する最寄り駅だった。東日本大震災のあった2011年3月11日夜に全町民1万1505人に避難が命じられ、大熊町から人の姿が消えた。
原発直近の
フクシマからの報告 2018年晩秋その3 原発内で働いていたからこそ思う 故郷はもう原発内部と同じ 渡辺さん親子の物語(下)
前回の記事に続いて、渡辺さん親子の話を書く。今回は父親の理明(まさあき)さん(48)である。
山形県に避難して間もなく8年。この間に、渡辺さんの健康は悪化した。壮健な少年野球チームの監督だったのに、円形脱毛症になり、大量の下血で救急搬送され、2年前からは人工透析に週3回通う身になった。取材で会うたびに、病気や故障が増えていった。顔色も悪くなった。避難直後の元気な姿を覚えている私には、痛々しい姿に
フクシマからの報告 2019年春 山間部は高線量・海岸部は無人 中心部だけが新築ラッシュ まるで「復興ショウルーム」のよう
福島第一原発事故で放射能汚染を浴びた福島県の地域はいまどうなっているのだろう。そこに住んでいた人たちはいま、どこで、どうしているのだろう。街は村は、どうなったのだろう。現地を自分の目で見て、当事者たちに会って話を聞く。それを報告・記録していく。それが、私が2011年春からずっと続けている作業である。
今回も、2019年3月15日〜19日、福島県南相馬市・飯舘村・浪江町などを訪れた。8年間で現
フクシマからの報告 2019年春 原発事故から8年 カエルの産卵地も除染で破壊 消えゆく事故前の山村風景
毎年、サクラの咲く季節に福島県飯舘村に取材に行くと、必ず足を運ぶ場所がある。同村の南端・比曽(ひそ)という集落にある公民館である。ここはかつては小学校だった。廃校跡に公民館が作られた。その一角にこじんまりとした体育館とプールが残っていた。
このプール跡の水たまりに、冬眠から目覚めたカエルたちが産卵に戻ってきているかどうかを確かめる。それが私の毎春の習慣になった。
飯舘村は阿武隈山地の中、
フクシマからの報告 2019年春 8年間眠り続けた 原発事故被災地の高校 ついに休校 被災地に子供戻らず 消えゆく学び舎
前回のカエルの産卵プールに加えて、私がサクラ咲くシーズンに福島県飯舘村を訪ねると必ず寄る場所がある。
同村深谷にある相馬農業高校・飯舘校である(冒頭の写真=2019年4月27日に筆者撮影)。1949年の創立。これまでに約3400人の卒業生を送り出してきた。全校定員40人のこじんまりとした学校だった。
2011年3月11日から始まった福島第一原発事故による汚染で、国が全村民6,000人に強
フクシマからの報告 2019年春 福島第一原発復旧工事で白血病になった作業員再訪 「俺は昔の炭鉱夫くらいにしか思われてないのか」
今回の「フクシマからの報告」の取材のために、福岡県北九州市を訪ねた。東京から出発して、福島県とは反対方向の西に飛行機で飛ぶ。
なぜフクシマとは離れた福岡県に行くかというと、北九州市に福島第一原発の復旧工事に参加したあと、白血病にかかった池田和也さん(44)=仮名=が住んでいるからだ。2017年3月にも一度、池田さんを訪ねて話を聞いた。「俺たち作業員は捨て駒なのか」という記事で本欄で公開した。私が
フクシマからの報告 2019年春 息子と娘の甲状腺にのう胞としこり 医師「経過観察ですね」 母「先生、意味がわかりません」
私は、2011年3月の福島第一原発事故直後から8年間、故郷から他県に脱出し、避難生活を送る人々を訪ね歩く取材を続けている。
山形県や埼玉県、群馬県、兵庫県など、その旅は全国に及んだ。会った人たちとは今も連絡を取り続けている。そして時折会いに行く。その生活や考えがどう変化したか、しなかったのか、歴史の記録に残したいと願っているからだ。
原発事故から8年が経つ。私が取材してきた人たちは、次の3パタ
フクシマからの報告 2019年春 原発事故難民3人を再訪 帰郷・失望 単身帰還 隣町避難 8年後の今も事故前の暮らしは戻らず
ここに一枚の写真がある。福島第一原発事故から約半年後の2011年9月5日、山形県米沢市で撮影したものだ。原発事故直後から撮りためてきた写真アーカイブを探してみたら、出てきた。
木幡(こはた)竜一さん(左)と但野(ただの)雄一さんが写っている。当時、二人は福島県南相馬市から避難して、米沢市の小さなビジネスホテルを避難所として割り当てられていた。そこを訪ねた時のものだ。
それに先立つ2011年
フクシマからの報告 2020年春 JR常磐線開通に合わせて レッドゾーン道路だけ封鎖解除 9年間無人の街を前にマスコミは無関心
昨年の12月20日、こんな報道が流れた。
「政府は、帰還困難区域である福島県富岡町のJR常磐線・夜ノ森(よのもり)駅周辺の避難指示を、来年3月10日に解除する方針を決めた」
時事通信の記事は「帰還困難区域の避難指示が解除されるのは初めて」と誇らしげに言う。
(Google マップより。右上隅が福島第一原発。直線距離で6〜7キロ)
これは現場に行って、この目で確かめなければならない。私はそ
<フクシマからの報告 2020年春> 津波と原発事故で消えてしまった JR富岡駅前の商店街を再訪 住民の95%が消えた町で ホテル経営に挑戦する地元民に会った
東日本大震災による津波と原発事故で、消えてしまった街がある。福島県富岡町にあるJR富岡駅(常磐線)一帯である。地名では「仏浜」という。前回の本欄で書いた「夜ノ森駅」の一つ南、東京寄りの駅である。
「浜」という地名の通り、海岸からわずか500メートル。ホームから海が見える。静かなときは波が砕ける音が聞こえる。電車は1時間に1〜2本。1898年開業。小さな木造駅舎が立つ、ひなびた駅だった。
↑2
<フクシマからの報告>2020年春 「人が戻らない」 再開3〜4年 事故前の人口を回復した市町村ゼロ 強制避難地域 帰還者の苦悩
2011年3月11日に始まった私の福島第一原発事故取材は、9年目に入った。
今回の論点は「かつて強制避難の対象になった市町村には、どれくらいの住民が戻ったのか」である。
東京で見る新聞テレビは、やれ「JR常磐線が全線復旧した」とか、やれ「東京五輪の聖歌ランナーが走る」(コロナウイルスで五輪そのものが延期にならなければ2020年3月26日に福島市を出発するはずだった)とか「復興」を演出する
フクシマからの報告 2020年秋 沿線30㌔廃墟が続く 山街道を行く 人口帰還率6% 浪江町を歩いた 写真ルポ(下)
前回に続いて、福島県浪江町からの報告を書く。
上巻は同町の平野部・海岸部の市街地の様子を書いた。今回は方角を東から西に反転して、阿武隈山地の山間部を訪ねる。
前回のおさらいをしておこう。
浪江町は東西に長い。西の町境から太平洋岸まで35㌔ある。東京圏でいえばJR東京駅から八王子駅の距離に近い。福島第一原発のある双葉町の北隣。町の中心部は原発からは約8㌔しか離れていない。
2011年3月1
フクシマからの報告 2021年冬 10年前見た行方不明の家族を探すチラシそのお父さんにようやく会えた 自宅跡は核のゴミ捨て場に それでもなお娘の体を捜し続ける
2021年3月で福島第一原発事故の取材を始めて10年が経つ。その10年の間、ずっと気がかりでありながら、取材をする勇気が出なかったことがある。
震災直後の2011年の春、私は福島県南相馬市に入った。同市は原発から約25㌔のところにある「浜通り」(太平洋沿岸)地方の基幹市だ。
原発から20㌔圏が国の命令で「警戒区域」として立ち入り禁止にされ、30㌔圏は屋内退避になったころの話だ。私は、まさにその
フクシマからの報告 2021年冬 渋谷区より広い核のゴミ捨て場が 4500人のふるさとをのみこんだ 撤去されるのは2045年 帰還人口2.5%の大熊町を歩く
福島第一原発事故の被災地に行けば、延々と続く黒いフレコンバッグの山を目にしないことはない(下の写真は2014年5月14日、福島県大熊町で)。
中身は除染ではぎとられた汚染土や、解体された家屋の廃材である。福島第一原発の原子炉から噴き出し、一帯を汚染した放射性物質が含まれている。
政府は、住民を強制避難させている間、ばらまかれた放射性物質を除染し、それが済むと「帰ってよろしい」と避難を解除した。