ちょうどいい

11月始め辺りからの、暖かくなったり、寒くなったりの、なよなよした季節が終わり、このところがくんと寒くなった。

最近の平日の楽しみといえば、(在宅勤務であれば)仕事を終える少し前にお湯を張り、お風呂に浸かることだ。

お湯を止めてから、諸々を片付け、服を脱ぎ、体を洗う、といった手順が存在するので、お湯張りの時はその時間を逆算してすこし熱めに設定する。

のだが、私はまだ「ちょうどいい」温度をつかめていない

43度では少しぬるく、44度では少し熱い。

ぬるいのを熱くするのは少々めんどくさいし、何より一口目ならぬ一入り目(?)のガッカリ感がすごいので、最近は44度を耐え忍びながら少々水を加えるという手法に落ち着いている。


世の中、自分の「ちょうどいい」を手に入れるには二苦労ぐらい必要である。


私は世間の平均からすれば、かなり小さな方なので、トップスはまだしも、ボトムスを新調するときには、裾上げという工程がついてくる。

その昔、テーパードパンツを買ったときには、裾上げでテーパードの部分が綺麗に切り取られ、ストレートパンツになったというのは私の十八番の笑い話で仲の良い人なら1度と言わず聞いたことがあるだろう

世の中の標準でないだけで、好きな服を着るのにプラス1000円かかるというのはいささか、納得し難いことではあるが、ダボダボのズボンを着るよりは幾分マシだろうと思っている。


ただ、もう少し深く考えてみて、世の中の標準がちょうどいい人がどれだけいるのだろうと思う。

服に関していえば標準の恩恵を受けている人はそう少なくはないだろう(というか標準サイズってそういうもの)が自分にとって、ちょうどいい場所、ちょうどいい仕事、ちょうどいい友達、ちょうどいい恋愛なんてものをなんの苦労もなく手に入れている人はほんの一握り、いやほぼいないといっていい気がする。

世の中に用意されているものは全て少しずつ心地が悪くて、それをそれぞれが、手直ししたり、妥協したり、話し合ったり、ときには我慢したりしてちょうどよくしているのかもしれない。

そう考えてみれば、「人生は、切り開くものだ」なんていう自己啓発の常套句みたいな言葉は(今の時代は特に)あまり的を射ていなくて、
むしろ、人生は世の中にある無数の選択肢もしくは妄想から切り取って行くようなものな気もする。

前向きに、自分の身の丈に合ったちょうど良い生き方を選びとっていくことは多分そんなに悪いものではなくてむしろ、覚悟と勇気のいることだ、と思う。

身の丈に合うものを選ぶにはまず自分の等身大を知らなければならないし、その次には、流行り廃りに流されず等身大のモノを選ぶことが必要だ。

それがどのくらい難しいのかはいまだに似合わないとわかっている服を買ってしまったり、そこまでお腹が空いていないのに無料の麺大盛りに飛びついてしまう僕にはなんとなく想像ができる。

後悔のない人生などないというし、最初から最後まで、精巧な切り絵のように切り取っていけるわけもないけれど、おじいさんになったとき、その時が来たときに、スパッと未練を断ち切れるくらいの覚悟と切れ味は持っていたいと思う。

そのために、自分にとってちょうどいい毎日を生きるには、きっと等身大、精一杯過ごさねばならないのだろう。


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時刻は22時12分。

お風呂で温まり、ご飯も食べた。

お風呂の中で、たいそれたことを考え、文字にもした。

が、今の私の「ちょうどいい」場所は布団の中だ。

もう何もしたくない。

一旦全て忘れてちょうどいい夢を見る。



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