ネットが嘘?テレビが嘘?「真実」ってそんなに重要か?
どうも。うまちゃん先生です。
巷で話題の兵庫県知事選について、皆さんはどう思いますか?
正直すごく面白かったと思うのは僕だけでしょうか?
議会の全会一致で不信任を議決されたパワハラ疑惑の県知事が、なんと見事に返り咲き。
しかもその疑惑そのものが、議会の既得権益を守るためにでっち上げられた可能性もあるとかないとか。
言葉は不適切かもしれませんが、すごく面白いドラマティックな展開ですよね。
ただ、一連の報道やネットの声を聞いて僕が思ったのが、
「どこまでいっても、どんなニュースを確認しても、本当の意味で真実はわからないから、あんまり真剣に追いかけるのは不毛だな」でした。
政治に興味を持つのは良いことだけど・・・
このようなドラマティックな選挙があったからこそ、みんなの関心を集め、民意の力を示せたというのは正直快挙なことだと思います。
僕も大人になってからずっと、「どうせ選挙行っても、何も変わらないんでしょ」という感じでした。ここ数年までは、ほとんど選挙自体にも行っていませんでした。
そんな僕でも今回の兵庫県知事選は非常に面白かったし、関心を持てました。(兵庫県民じゃないのにね!)
実は、その前の衆議院選もとても興味深く、いろいろなことを調べて、「これからの日本はより良い方に進むかもなぁ」なんて思っていました。
どんどんと今までの一方的なメディア(テレビや新聞)の力が失われ、SNSの力が大きくなっていくことは、何となく「国民の声が直接反映されやすくなった」という思いもありました。
でも・・・
どこまでいっても真実かはわからないなら、それを追求することに意味はあるの?
今回の兵庫県知事選や前回の衆議院議員選で、大きくSNSの力が示されました。
そこには旧メディア(テレビや新聞)vs新メディア(SNS)という対立が生まれているような気がするのです。
互いに意見はあり、ある意味ではどちらも真実なのでしょう。
ただ、一つ言えることは、「我々にはどれが真実かを判断できる確たる材料はない」ってことです。
最もらしいことを聞いたり見たとして、それが真実かどうかをどうやって判断するのでしょうか。
そして、真実かどうかを判断すること自体、自分の人生にとっていかほどの意味があるのでしょうか?
結局は僕たちは信じたいものを信じるしかない。
真実だという確たる証拠がない時、人は何を信じるのでしょうか。
おそらくそれは「自分が信じたいもの」を信じるのだと思います。
人は自分の感覚に従って、物事を考えます。それ自体は非常に良いことであり、基本的に自身の感覚は(自分にとっては)正しいことが多いです。
しかし、「自分が信じている」事と「真実かどうか」というのはまた別の話。
「意見」と「事実」は切り分けよう、なんて言ったりしますが、意外にこれを混同してしまう人が多いように思います。
今回の県知事選でも「正義だ」なんて言葉も聞こえてきますが、「それはあなたが思う正義ね」という感じです。
でも、真実かどうかが判断できないときは、信じたいものを信じるしかないんです。自分の感覚に従って。それは自然な事です。
ただし、それはあくまで意見であって、真実ではないかもしれないと頭に入れて置かないといけないと思います。
あなたに時間と熱意があればどうぞやりましょう。
それをコンテンツにYouTubeでもすれば、きっと一定の人はそれを見て楽しみ、あなたにもリターンがあるかもしれません。
しかし、この世の中のあらゆることに、確証を求めていったらキリがありません。
よしんば、自分なりに確証を得たとしても、「それが本当に確証なのか」の証明を一体誰がしてくれるのでしょうか?
だったら、自分が本当に命を燃やせることに時間を使いましょう。(鬼滅の刃の煉獄さんも言ってましたね)
話は戻りますが、真実の確証を得ない限りは、「信じたいものを信じる」しかありません。
しかし、信じたものと違う真実が明らかになったとき、人は裏切られたと感じてしまいます。
言い方は悪いですが、勝手に信じて勝手に裏切られたと感じてしまう危険性があるんです。だからこそ、距離感が大切。
程々の距離感が大切だなーって思う。
結局、政治に限らず、自分の影響がそこまで及ばないことについては、程々の距離感が大切だなと思うのです。
自分の人生に直接関係のないことには、多分に入れこまず、一歩引いた冷静な目で物事を見る。
人は面白いものに惹かれます。
何かのストーリーが好きなんです。
メディアやネットはその面白いストーリーを用意して、人々の関心を惹こうとします。
僕が近々の選挙について面白いと思ったのもまさにその部分。
「民意が巨悪を打ったんだ!」
もしかしたら、それもまた誰かが用意したストーリーの一つかもしれません。