映像作家の僕がなぜコロナの発信を続けるのか?
僕がまだ科学者を志していた頃の話。通っていた京都の予備校の化学の教師の言葉にとても感動したことを思い出す。「どんなに難しい問題に見えてもあきらめてはいけない。自然科学は、一つ一つの論理の積み重ねだ。うんうんとうなりながら論理を積み上げていけば必ず答えが現れてくるはずだ」そのことばにはとても力があった。結局科学者にはなれなかったが、それでも
科学に関わる仕事をその後30年続けてこられたのは、きっとこのことばにささえられてからだと思う。
しかし、何度か挫折があった。一度目は製薬会社医薬開発本部に勤務している時だ。僕は新薬の臨床試験のディレクションをしていた。プロトコルを書き、それに従ってドクターにくすりを投与してもらう。その後の症状や、臨床データの変化を確認して、統計解析の専門家に解析してもらう。その解析結果をもとに、大学教授の代わりに論文を書く。いわゆるゴーストライターだ。これが僕の仕事だった。
しかし一見科学的な仕事に見えて、全く政治的であることがやっているうちにわかってきた。臨床のデータなどは、薬の承認の前には、二の次になってしまう。有効なデータが採用されて、高熱が出るなどのデータは除外する。この時ドクターの一筆が必要になる、それが今はやりの「因果関係なし」ということばだ。
これがあれば不都合なデータは統計解析から外される。有害な事象が発生するたびに僕はこの1行の言葉を書いてもらうためだけに新幹線にのってドクターのもとへいった。そして書いた論文は教授に認められて、とりあえず次のフェーズに入ることになった。しかし、僕の中に大きく膨れ上がった疑問はもう小さくならなかった。「こんなものは科学ではない。」
なかったことになった副作用でもし人が亡くなったりしたらそれは僕のせいではないのか?とても怖くなった。間も無くして僕は会社を辞めた。
この経験が僕をメディアの世界へ導いたと言える。僕はこの経験を多くの人に伝えたいと思ったからだ、最初はライターを目指していた、しかし結局映像プロダクションに入りディレクターになった。
しかしそのプロダクションは、NHKの自然番組や教育番組がメインのため僕が最初思いていた社会問題を描くようなドキュメンタリーを作る機会はなく、今日に至る。
そしてこのパンデミック。20年間正しいと思っていたNHKの公平公正な姿勢があっという間に崩壊して、政府、その背後にある大きな組織のための報道に変わった、国民を煽りどこかに導こうとする戦前のNHKの姿に舞い戻っていた。何度も何度も確認したが、間違いを認めず、厚労書の責任にしたり、しらばくれたりする。もうこれはダメだと諦めて、自分で発信するしかないとおもった。
以前の僕のことを知っている人には、昨今、コロナ関連の投稿しかしない僕のことを頭がおかしくなったかと思われる方も多いかもしれません。でも、今自分たちをまもってくれるのは、予備校の時の教師の言っていたあくまでも科学的な態度であるということを信じて、自分なりに真実を発信しています。
また製薬会社の経験が、おそらく今、多くの人に真実を伝えるうえでとても役に立つのではないかという思いから、自分の生活や仕事はある意味犠牲にしてでもやるべき、ある意味僕に与えられた運命みたいなものだと感じています。
その僕があえて言います。
「ワクチンを打ってはいけません。打った方は1回だけにしてください。1回だけならまだ望みはあります。」