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努力と絶望は、似た性質を含むと思う。少なくとも、一部の人間にとっては。

はじめに

春になると、努力について考える。毎年のことだ。

きっと春は、受験だの論文だのと、”結果”に追われて過ごすからだと思う。
あるいは、理系大学院生にとっては就活だってそうだ。
入学や就職も、”結果”を意識させる要因だと思う。

実は、昨年もnoteにまとめていた。投稿できなかったけれど。
今回は、努力について。思いっきりポエムです。

努力と絶望

努力絶望は、似た性質を含むと思う。

どちらも、”極めて個人的”なコトのように感じる。
これらに伴う他者の苦痛に共感することができない。
無理に共感しようとすることは、失礼なようにすら感じる。

どちらも、”ある種の呪い”のように感じる。
意識した途端に、常に視界の端について回る。
思考や行動を支配されてしまう。ポジティブであれ、ネガティブであれ。

そして、
どちらも、こんな風に軽々しく語るべきではないような気がしてくる。

行き場を失った努力たち

つまり、努力にしろ絶望にしろ、
囚われるような苦しみを伴うわりに伝わりづらいということが
言いたかった。

それでも、結果が出れば良い。
努力にしても絶望にしても、それが糧になれば良い。
結果から見て、努力をしたのだろうと想像できるから。苦しみがあったかもしれないと想像できるから。


それでは、結果が出なかった、あるいは、伝わらなかった努力の行き場は?
行き場のない努力ほど、悲しいものは無いと思う。

あるいは、努力をした人がそうでない人に負けるようなことがあったら?
一体、どんな顔をすればよいというのだろう。

その努力が、あなたにとって

努力とは、本来見えにくいものだとして、
それに気づくことが出来たならば、とても幸福なことなのかもしれない。

努力のような、極めて個人的なコトに気づけるほどに、
親しくできているのかもしれないと思えるから。

叶うならば、親しい人の努力を見ていたい。
救いにも報いにもなれなくても、その行き場になれたらよい。
そんな綺麗ごとを、絵空事を、考えている。


その努力が、絶望に似たのろいではなく、
まじないになりますように。
その努力が、あなたにとって少しでも優しいものでありますように。


あとがき

今回は完全にポエムだ。論理も何もないな……。
自分が苦しくなったときに、
こんな綺麗ごとを書いてしまった事実でしんどくなりそうだ……。

そんなことを考えているうちに、5月だ。

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