説明不可能な自然知能ーー自分は理論的な人間だと信じていた
もう少しNoteを書くハードルを下げよう。
この場所を、思考の掃き溜めにすることを許そう。
そのためのリハビリ。お久しぶりです。自分語りをします。
学術的根拠根拠はないです。
私は、どうしようもなく感覚的な人間だ。
理論派 vs. 感覚派
人間を二項対立で雑に表現する試みの一つに、感覚派だとか、理論派だとかといった分け方をよく見る。雑なので、とってもわかりやすい。性格診断とかでもよくみかける。
ここでいう理論派とは、思考の結果(=理論)を根拠に行動する人。対して、感覚派は、感性や感情を根拠に行動する人と、仮に定義して話を進めてみる。
私は理論的な人間だと信じていた
おそらく、大学入学前後まで、私は私自身が理論的な人間であると信じていた。
例えば、、、
私は理系であって、科学的根拠があるものを好んでいた。
私が何かを決めるとき、その根拠を淀みなく説明することができた。
私はやりたいことよりも、やるべきことを選択してきた。
私は自身について、誤りである可能性を捨てないでいた。
このような私自身の趣向からして、私は自らがロジカルな人間であるように考えていた。幼稚な発想である。
先に挙げた趣向とは、正しくは「説明可能性」だとか「言語化」だとかである。これは理論派・感覚派とは全くの別軸の話だ。
私は理論的な人間では決してなかった。
私は、自らの感覚的な決定を尤もらしく説明することに長けた人間だった。肯定的な自己欺瞞に長けた人間ということだ。
そのことに気づいてからはむしろ、少しだけ自己欺瞞が減ったように思える。自分に対して素直になった。
説明不可能な自然知能
ところで、説明可能な人工知能(XAI)という研究分野がある。
人工知能はブラックボックスだ。答えの根拠は、誰にもわからない。
しかし人間と同じように説明できなければ信用できないから、XAIは注目されているという側面がある。
例えば、ChatGPTをはじめとする大規模言語モデルもXAIとは言えないと思う。回答の根拠を求めれば意志決定プロセスを答えてくれるだろうが、それは後付けの尤もらしい回答にすぎない。
ところが、人間であるはずの私も、自分の意志決定プロセスを正確に説明できない。(実際には朗々と説明することができるが、それはChatGPTと同じだ後付けだし、信用できない)。
私は説明可能なAIを求める人間でありながらも、説明不可能な自然知能の持ち主であったらしい。
蛇足、あるいは論点をずらした結論
擦り切れるほど擦られた話だけれど、自由意志なんて(ほぼ)存在しないという向きもあったりする。実際、運動準備電位という運動開始前に計測される脳波があったりする。(意志との関係については議論があるけれど)
そもそも、私たちの脳だって神経回路網を走る電気信号が本質だ。
人間はみんな、説明不可能な自然知能だと言えるかもしれない。
結局みんな感覚派☆
凡庸な結論
二項対立で考えるのはやめよう!認知バイアスに陥るぞ☆