観劇記録「Violetopia」
「RRR」の2幕目となるショー「Violetopia」は私の感覚を根底から覆すとんでもない作品だった
演出家の指田先生の過去作であるバウホール公演
「龍の宮物語」まで遡ってみるほどにハマってしまった。
初鑑賞時はなんともトンチキで宝塚らしくない
ショーであると感じたが、見れば見るほど宝塚らしい作品に感じてきた。ここでは忘れないために
考察めいたものを記録していく。
「Violetopia」主題歌の歌詞について
まず驚くのは主題歌の完成度にある。ショーは見終わってすぐ主題歌を口ずさめたら良作ショーであるとよく言われるが、本作はそこをすぐにクリアしてしまった。
「今宵はあなたと我らのもの、夢燻らす劇場」
私はこの一節がとても好きだ。冒頭、礼真琴さん演じる青年は廃墟となった劇場に咲く一輪のすみれに心惹かれ廃墟の劇場で上演される作品に自身を投影していく。青年は人間不信に近い状態にあり、荊の声が聞こえたり、夜露の歌い聲が聞こえるほどに。けれどそんな彼だからこそ、廃墟となった劇場は彼のものになった。(ここの礼さんの服装も、奇しくもロミジュリのヴェローナを追放されたロミオを連想させる)
もちろんすみれとは「宝塚」を指す。宝塚しかり
劇場とは誰か一人のものではない。だが、孤独に苛まれ心の拠り所がなくなった時にはその誰かのものになる。それこそが宝塚であると主題歌で高らかに宣言するところが大好きだ。
「バックステージは虚構」の無情さ
ここからは個人的に好きな場面を考察しながら書いていこうと思う。
まずは暁さんメインの「バックステージは虚構」ここでは舞台のバックステージで裏方として活躍しながら、いつかヒロインの相手役になることを夢見ながら働く青年の物語だ。
まず驚いたのはものすごく宝塚をイメージしたものになっていることである。裏方=端役として
舞台に立ちながらもいつかトップになることを夢見るジェンヌさんたち。設定こそ個性的で気づきにくいが、根底にあるのは純粋な宝塚への思いなのだ。
ここで私が1番好きなのはやはりラストである。
主役の座を無理やり奪いトップとして舞台に立つ
そしてそのままトップという肩書き=あのコート
を投げ捨てて、素直な自分で舞台に立つ。しかし
それでも、相変わらずヒロインには相手はされないし、パッとしない日常に戻るがなぜだか青年の顔は明るい。
側から見れば何も変わっていないし、青年はこれからも裏方として舞台に立つしかない。けれど
あの一瞬でも感じたトップとしての楽しさは、
暁さんによるあの伸びやかなダンスが見事に表している。どんなに端役でも誰もがあの楽しさを持ってる。正に宝塚らしい場面だ。
「楽屋、燻る憧憬」にみる主役の不在
極美慎率いる若手男役たちが、恋焦がれるスターに会いにいくために楽屋に通い詰めると言った
字面にすると何とも言えない場面ではある。
しかし私は内容というよりもこの場面の持つ効果について話したい。ここでは女優にいくら恋焦がれても会えないファンの男たちが描かれている。
だがこのファンこそ、宝塚ファンを描いたものである。
いくら舞台写真を買っても、いくら写真集を買っても所詮触れるのは抜け殻のみである。
この場面の効果は、それまで他人事として舞台を見ていた観客を舞台に投影することで他人事は無くさせる。実にすぐれた場面だ
「孤独」に込められたとびきりの愛
廃墟の劇場に上映された作品に自身を重ねるも、
所詮は虚構に過ぎずあとは孤独が募るのみ。
それでも過ごした日々は嘘じゃない。辛い時には
自身の影法師が、作品たちがついている。
その中にはサーカス小屋のヘビのように辛いものもある。けれど確かなのは、一人ではないということ。
あれほどの境遇に置かれて、作品の中で揉まれながらもその後に残る感情は「ただ愛おしい」
指田先生なりの不器用な伝え方で伝えられた愛情に、私は感嘆するのみだ。