参議院選2019の選挙戦に際して思うこと
※メモです。雑多。
現在の政治は、情報のソース、クオリティーにおいて判別がつきにくい世の中になっている。ぶっ潰す対象だと言うNHK、視聴率を稼ぐべくビビッドな話題を提供する民間放送、140字でしか表現できないTwitter、読まれない長文媒体。このような情報の氾濫を考えれば、人間は自分の信条にあった情報を選び取るようになり、それが自分の意見を補強する「確証バイアス」の世の中になる。つまり、客観的な比較ができる環境が利用されず、集団的な極化現象に巻きこまれることは容易に想像できる。
キーワードは「極化現象」である。これは集団で、一つの心情にまとわりつくようになる集団の意思決定における傾向であり、個人での意思決定ではどうにも状況を打開できない場合によく見られる。これが採用されるのは個人の意思決定に限界がある場合、つまり
・情報が氾濫している ・評価基準が錯綜している/決められない
と言う状況である。結果として、現実離れした政策、選択肢しか強調して提示されなくなってしまう。これでは政治が、政治の議論が、現実離れしてしまう。冷静な議論を取り戻さねばならない。以下の取り戻すかを、検討せねばならない。
野党の対応を中心に、「対案を示せ」はナンセンスであると言う意見がある。これは現在、暴走している権力や付随する価値観を止めねばならないと言う観点から、代替手段を示さなくてもエスカレーションを防ぐことはできる、という考え方だ。もちろんこれは、極化現象を防ぐ一つのツールになりうる。しかし、極化現象を止めるのは極化現象であるがゆえに、その後の政策を示す段階には至らない。つまり、対案がなければ「政権選択」という、選挙を通して「政治を動かす」部分の本質である活動が阻害されてしまう。何をやっても政治が動かない状況を、情報の氾濫と言う大きな力が作り出し、調べれば調べるほど、岩のような政治の実態が見えてきてしまうのではないか。
関連するところではあるが、もちろん、批判と人格攻撃は違う。政権与党もしかり、野党もしかり。「恥を知りなさい」という不信任案への反対答弁も、「アベのせいだ」と声高に叫ぶツイッター上の人々もしかり。なぜ特定の政治団体や政治家について、存在意義自体を否定するのであろうか。このような人格否定の塊である政治に、未来はあるのだろうか・・・、と思ってしまう。与党も野党も悪い訳ではない、ただ現在の環境自体が、現実の情報もフェイクニュースも含めた情報の氾濫が、極化を止める術を持っていないだけなのではないか。
もちろん、この極化の流れを考えれば、世界の右傾化、また左傾化についても説明がつく。EUや米国のリーダーシップに関する議論とも通ずるところがある。私は今後、日本が同じような状況に陥るのではないか、また陥っているのではないかと危惧しているが、実は私にも判別する力がない。氾濫を切り捨て的ではなく、補償的に整理し、冷静な議論を生み続けるシステムの誕生を期待するとともに、検討していかねばならないと思う。