ゆめ
私の地元は大きな3つの山に囲まれている盆地だ。そしてその3つの山は龍がしゃがんでいる姿に似ていることから「臥龍山」と呼ばれている。空を飛んでいた龍が少し休むために降りてきたのか、それともまだ空を飛べない大蛇がそのまま山になったのかは知らないが、その龍の胸元に人々は家を建て町を作って生きていることになる。そして自分たちの町を守ってくれる龍への感謝の気持ちを込めて、その地域を「龍山」と名付けた。大きなショッピングモールもあるし、それなりの広場もあるいい感じの繁華街だ。その町の最寄り駅から降りて20分ほど歩くと、私の育った町がその姿を現す。駅周辺とは違って、老人が多い古い町だ。そしてその町の夕焼けが照らす小道に私の第一の夢がある。
散歩が好きな私は、目的地を決めず毎日のように町をうろついた。犬を連れて散歩したり、道の端っこにある本屋に寄って漫画を借りたりする。もしくはカフェに行ってコーヒーを飲んだり、音楽を聴きながら小さなケーキを食べたりする。大したことはしなくても、その分心は落ち着く。色褪せたアイボリーのペイントや誰も使っていないこども公園は、この町を離れた20年前と同じだ。不思議と寂しく思わない。それは20年前にこの町で騒いでいた子どもたちの笑顔が残っているからかもしれない。そして子どもたちがいなくなった今もなお、夕暮れは母のように暖かくアスファルトを照らしている。何も考えずぶらぶら歩いていた私は立ち止まって、まるでこの瞬間を独り占めしているような錯覚に陥る。そして、夢のページを描いてみる。私はこの先、こんな風に暖かい夕暮れが照らす町で生きていきたいと。そして少し古い町並みだとさらにいい。新しい道は綺麗でオシャレだが、自分がそんな場所で育ってないせいか心を開くことが難しい。自分勝手に生えている雑草や名もなき花から安定感のようなものを感じる私には古い町くらいが丁度良い。1人で、それとも誰かと一緒に、あるいは犬と一緒に野ばらの香りを嗅いで暖かい夕暮れに触れながら歩くその道はきっと、飾ったりする必要のない幸せな道のはずだ。
2つ目の夢は小学校の校庭から始まった。そこは坂道を登って辿り着ける小さな小学校だ。雨が降る日は滝のように雨水が流れたり、雪が降ると下校道が雪ソリ場のようになる。降りる時は楽しいが、登る時は大変だ。その坂道を6年間も通わないといけないから不満を漏らす人も多かった。しかし悪いことばかりではない。春になり坂道を登って校庭を通ると、プレゼントのような風景が広がるようになる。校庭を埋め尽くしている沢山の桜の木がコンフェッティのように花びらを散らしながら子どもたちを迎えるのだ。その光景を見た私は雪のように白く積もった花びらを踏みながら、また1つの夢を心に思う。将来自分で家を決めることになったら窓から桜の木が見えるところにしよう。春が来たら冬の間ずっと閉めていた窓を開け、花びらが降る風景を眺める。窓から花びらが入ってきたっていい。その根本に座り、本を読んだり愛する人と言葉を交わしたり、美味しいものを食べたりしてもいい。そうして窓から桜の木の見える家に住むことは私の夢となった。
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私の夢はハッキリとした目標っていうよりかは、心の中にひっそりと隠しておいたアルバムの中の1枚1枚の写真のようなものと似ている。それぞれ壮大な夢を持っているはずのみんなからすると、私のこのアルバムは夢と呼べるほどのものではないかもしれない。だが私にとっての夢は野望というよりも日常だ。全てが日常のある古い思い出から出てきた色褪せた写真で、それは思い出から夢へ、そして夢から日常へ続くものでもある。
目の前に思い浮かぶ未来の風景を心のカメラで撮り、アルバムの中へ入れる。そしてやっとその日が来たらこっそり出して今の目の前の風景と比べてみる。夢の風景は現実と同じ時も、そして違う時もある。それは両方間違いなんかではなく、どちらもそれぞれの魅力があるはずだ。現実と夢を丁寧に見比べ、誰も気づかないうちにこっそりと笑い、写真を撮るようにゆっくり瞬きをすると現実と夢はそのまま1つの思い出となりアルバムを飾る。
そのアルバムには私の夢が、思い出が、人生が籠っている。言葉にすると「幸せな日常を送ること」が私の夢になるかもしれない。だがその言葉だけでは言い表せない特別さがそこにはある。おそらく私はこの夢のアルバムを一生かけて作り続けるのだろう。そして今日も心の中のアルバムをこっそり開いて、また閉じる。