「われわれ」について——outré Advent Calenderのあとがき
(約3,000字)
Advent Calenderの最終日が空いていることに気づき、昨日の20時ごろにひっそりと文章を準備し始めた。筆者は20日にも執筆したが、その内容はどちらかと言えば同人批評とボカロ、そして自身が慣れ親しんできた哲学的思想からスタートしたのであり、この「outré」という集合体について触れていなかったのを勿体なく感じていたからだ。いうまでもなく、上記のカレンダーに登場している面々の全員がそのことを話題にしているわけではないし、その必要もないかもしれない。とはいえ、最後を飾ることになるこの文章がひっそりと「われわれ」について語ることを、筆者は小粋なことだと思う。中枢メンバーでもなければ、このAdvent Calenderに乗じてひっそりと参加した末席に過ぎない筆者だが、それでもせめて、このささやかな「あとがき」が今後の「われわれ」の輪郭線を形成すればと思う。
「outré」という言葉はフランス語で「~の向こうに」「~を超えて」という意味を有するようで、そこから転じてか、「常軌を逸する」という言葉が英和辞典には掲載されている。およそ「over」のような意味なのかとぼんやりと思っていたと同時に、この「常軌を逸した」集団とはどのようなものか、そもそも常軌を逸したものが「集団」となることは可能なのだろうか、筆者に不意に物思いにふけてしまった。常軌を逸しているとは、そもそも他者とコミュニケーションをとることすら不可能な次元にいるものではないかと考えたからだ。半端者ながらも精神分析学や現代思想や表象文化論を修めた私にとって、常軌を逸するという言葉はどこか精神病理的なものを想起させる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』しかり、精神病理的なものとして扱われてきた「狂気」が芸術や創作と結びつけられることは少なくない。精神分析に寄せれば、ジャック・ラカンのいうところの「現実界」を直視するような人々こそ「常軌を逸する」存在だろう。世界を「想像界」「象徴界」「現実界」へと区分し論じるラカンの視点において、現前に広がる世界は必ず何らかの形での象徴作用を経て誰かへ伝達されるが、精神病に曝されることで、象徴作用によって守られているはずの現実へ私たちは不意に曝されてしまうのだから。見えてはいけない「現実界」を直視し、同時に象徴的なコミュニケーションを実行するための回路さえ損傷した主体は、象徴界に所属する私たちの生活世界からは疎外された「異常者」として、すなわち精神病患者として診断される。「ひとはみな妄想する」というように程度の問題こそあれど、「常軌を逸した」精神病患者はみな異常者であり、そして彼らは象徴的コミュニケーション回路を著しく損傷しているがゆえ、意思疎通し損ね続ける孤独な存在だ。
outréな私たちが常に孤独で、そして誰かと何も共有できないのなら、そんな集合は「集団=われわれ」とならず、単なる「孤独の集合体」となる可能性さえ内包する。それでもなお集い、何かを生成することを声高に提唱するその行為は、病理を抱える逸脱者にとって現実から身を守るための緩い枠組みを欲するための、祈りのようなものではないだろうか。「われわれ」とは孤独な逸脱者が織りなす「ズレ」の集積としての、あるいは失敗しかしないがそれでも集積され続けるコミュニケーションの集合体としての「何か」である。私たちは孤独だが、それでもなお孤独者の産物の集積から形成する線のような何かにより、私たちは囲われ「われわれ」となることを希望しているのだ。その線は決して強固なものではなく、失敗作の集積がゆえに無数もの断裂があるだろう。辛うじて線と認識できるかできないかの境目にある断片が集合し織りなす「点線」のようなものこそ、筆者は「われわれ」のアナロジーとして相応しいのではないかと思う。
逸脱の実行とと孤独の回避。相反する両者を包含するために導入される「点線」。「手段の氾濫」と「意思の集合」を両立させようとする「われわれ」。その姿勢を前に、筆者は自身の論考で幾ばくか扱った「沿岸」のアナロジーを想起する。海に主体が溺れるのでもなく、陸地で孤独に干乾びるのでもない、そんな「どちらでもない」創造性こそが肝要だ。デジタル空間の氾濫によってずいぶん単純化された世界へ脱構築déconstructionを仕掛け、有機的存在あるいは戦争機械が差異を込めつつ反復する脱(再)領土化の果てに「われわれ」が形成されることを期待し、この「あとがき」を終えることにしよう。
ここはI. 目的の不在であり、II. 手段の氾濫であり、III. 意志の集合です。
それは喪われた魔術性を回復する試み(<差異化への欲求 ^ テクノロジー的革命>であり、時代遅れの秘密結社(遅れてきた時代と、その敵)です。
押し込まれ続けるID(EA)に閉じ込められることのない、生成/変化/生成変化の狭間を渡る者たちの寄る辺です。
みなさまは内在し内包する美学を持ち寄り、変容の流れにその一滴を落としてください(ワインに垂らされた一滴の泥)。
ここは混沌に見出す秩序にして沈黙に響く叫びです。輪郭は静かに交わり、解け、また新たな形/造形思考/で融け合います。
déconstruction〈解体〉(も、)〈脱領土化〉(も、)〈再構築〉(も、):すべて意のままに行ってください。
われわれの足跡が、路地裏の壁に、紙の上に、孤独の隙間に一瞬でも刻まれ、次なる現実をかすかに (((揺・照・降))) らせるように。
形なき・き・nなaa・aきaナーキ・アナーキー、aaーなー、nなkきー、なき、形なき集会。
有限/幽玄 - 無限/夢幻、微小/微笑 - 誇大/巨大。
その主体と本質がどこにあれ──あなたは自動的に歓迎されます。
ようこそ。