SNSがあったばかりに
Xがまだtwitterだった頃、私はあるアカウントのフォローを外した。
アカウント名は仮に「α」と呼ぶことにする。
αの中の人がアップする作品の質が下がったわけではない。
大きな炎上があったわけでも、あからさまな差別発言があったわけでもない。
しかし、中の人のたった一つのツイートが、私に「この人とは相容れない」「応援する気になれない」という気持ちを起こさせ、フォロー解除に踏み切らせた。
この出来事を思い返す度に、広義のアーティスト(プロ・アマ問わず表現をライフワークにしている人)がSNSをやることの功罪を考えずにはいられなくなる。
この記事では、私がαをフォローしてからフォローを外すまでのいきさつを振り返ってみたい。
αをフォローするまで
αの中の人は、街中で本を読んでいる人の写真を撮ることをライフワークにしていた。
もちろん被写体となる人には許可をもらい、顔は写さずに身体と本だけ写す。
写真には、被写体の人と出会った経緯や、ささやかなやり取りも添えられている。
当時の私がtwitterでフォローしていたのは、基本的にミスiD関連のアカウントと、書店や間借り本屋をしている人のアカウントだった。
要するに「本好きのミスiDオタク垢」である。
(アカウントを作ったコロナ前の時期には、数年後にオタクの活動やリアル読書会への参加などが一切できなくなるなど夢にも思わなかった。)
間借り本屋の誰かがαの投稿をリツイートしたことで、私はαの存在を知った。
αのツイートのリンクから本サイトに飛ぶと、そこには晴れた日に公園のベンチで本を読む人の写真があった。
顔は写っていないが、読んでいる本が写っていることで、少しその人の内面に触れた気分になる。
その人が手に持っていたのは私の知らない本だったが、こういう本もあるんだ、同じ読書人でも興味や読書観は人それぞれなんだと感じた。
面白い試みだと思い、写真と文章がアップされる度に見に行っては、気に入ったものに「いいね」を付けていた。
αのフォローを外すきっかけとなった出来事
やがて、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい始めた。
感染拡大によって医療機関はパンクし、呼吸困難に陥る感染者を捉えたニュース映像や増え続ける感染者数の報道が人々を戦慄させた。
感染拡大防止が社会全体の至上命題となる中、様々な職種におけるリモートワークの導入、イベントの注視、飲食・接客業や娯楽施設の営業制限といった大きな変化が立て続けに起こり、社会は大混乱に陥った。
発端はパンデミックという自然災害だったが、政治や行政における合理性を欠いた意志決定も混乱に拍車をかけ、人災と言っていいようなこともあちこちで起きた。
本の世界も、この混乱と無縁ではいられなかった。
多くの本屋が営業の縮小を余儀なくされ、潰れる店もあった。
しかし、こうした状況に歯止めをかけようと動き出す人々がいた。
下北沢の書店B&B店主であり、独立系書店界をリードしてきた内沼晋太郎さんが、仲間と共に大規模なクラウドファンディングを立ち上げたのだ。
このクラファンは、寄付をしたい人だけでなく、資金援助を受けたい書店を募集していた。
援助する対象の店が複数あるクラファンの運営にあたっては、それぞれの店の規模や経営再建に必要な金額を踏まえ、集まった資金をどう配分するか決めるという困難な作業が発生する。
「うちの店にはこれだけなのに、何であの店はあんなにもらってるんだ!」みたいなことになれば、書店業界のためにやったことが、むしろ業界全体に亀裂を生むきっかけになりかねない。
また、寄付したい人の中にも、クラファンに加わった特定の書店を助けたい人と、業界全体を助けたい人がいる。
クラファンのサイトからは、こうした様々な差異を念頭に入れた緻密なルール作りの課程が伝わってきて、何と行き届いたクラファンなんだろう……と驚いた。
もちろん迷わず寄付した。
リターンに惹かれ、クラファン店主たちのエッセイ本コースにした。
twitterのタイムラインでも、このクラファンは話題になっていた。
私がフォローしている人たちも、次々に参加報告をツイートしていた。
そんな中、少し毛色の違うαのツイートが流れてきた。
こんな内容だった。
見た瞬間、何それ、と胸がざわついた。
新型コロナウイルスの蔓延という不測の事態に直面して、自力で再起できないほどのダメージを負った書店が助けを求めることを、あなたは否定するんですか?
そこで唇を噛みしめて耐えるのが格好良さなんだ、それができない店主はみっともない、と言いたいんですか?
私がこう感じた背景には、2017年の#MeToo以降に読んできたフェミニズムや男性学に関する文献の影響がある。
複数の文献に共通していたのは、「男は強くあるべき」「男が弱音を吐くのはみっともない」といったジェンダーバイアスにより、男性は女性に比べて自分の苦しみや弱さを開示し合える関係を築くのが下手な傾向にある、という指摘だ。
弱みを見せまいとする態度は、自分を精神的に追い込むことに繋がり、自分自身を蝕む。
(自殺者に占める男性の割合の多さの要因として、こうした態度を挙げる文献もあった。)
また、自分の強さをアピールしようとするあまり、弱音を吐いたり悩みを相談してきた人に対して突き放すような態度をとり、誰かと助け合う関係を築けなくなるという指摘もあった。
(女性が交際相手の男性に仕事の悩みを打ち明けたら「で、結論は?」「その程度のことで悩むなんて馬鹿げている」といったような返答をされ、さらに辛くなったというような事例も紹介されていた。)
一方で、そういったバイアスにあまり縛られない女性同士の会話には、特に結論を出すでもなくただ話を聴き合って「そっか~」と相づちを打つようなコミュニケーションがよくある。
問題の解決には直結しなくても、悩んでいる本人は、否定せず話を聴いてもらうことで一定の安心感を得られる。
こうした時間が、問題に向き合う気力を養うことに繋がる場合もある。
男性からは「生産性がない」「無駄」と見做されがちな女性同士のお喋りだが、フェミニズムや男性学に関する文献の中では、良好な人間関係を作る手段として肯定的に捉えられているのを度々見かけた。
「男は強くあるべき」「男が弱音を吐くのはみっともない」といったジェンダー意識の解体は、男性自身の解放にも繋がる。
弱音を吐き人に助けを求める自分を許すことは、同じ状況にある他人を許すことでもある。
辛い、助けてくれと言っている姿は格好悪いかもしれないが、それによって辛さが解消されるなら、そして周囲が「そうか、自分も辛いと言っていいし、助けを求めていいんだ」と思うきっかけを作れるなら、無言で耐えるよりよほど意味があると思う。
しかし、αの中の人は、そんな人間は応援する気になれないという。
恐らく、自分の中のダンディズムに反するから。
αの企画の内容からして、中の人は本好きだろう。
本を読んで知識を吸収し、自分とは違う立場の人の意見や体験に触れて視野を広げ、自身の価値観をアップデートすることが重要だと認識していると思う。
#MeToo後にフェミニズムや男性学に関する本がかつてないほど出版され、広く読まれていることも分かっているはずだ。
それなのに、自分の中にある「男のダンディズム」信仰を問い直すことができていない。
あなたは本から何を学んできたの?
もちろん、中の人が想定している頑固親父が独身で、助けを求めないことで苦しむのが本人だけなのであれば、そういう生き方を選ぶのも本人の自由ではある。
しかし、彼に妻や子供がいたら?
彼がダンディズムを貫くことと引き換えに、妻が金策に走らざるを得なくなったり、子供が進学を断念するしかなくなったら?
もしくは、彼が店で人を雇っていたとしたら?
彼がダンディズムを貫くことと引き換えに、社員やアルバイトが賃金を減らされたり、クビにされたりしたら?
ただでさえ、コロナ禍でみんな大変な思いをしているのに?
社会で権限を与えられやすいマジョリティ男性の痩せ我慢は、往々にして、彼と同じコミュニティにいる立場の弱い人々を、本人以上に苦しめるのだ。
そういう事態は想定しましたか?
その上で、やはり助けを求めるのはみっともないと言うのですか?
……そんな思い、むしろ怒りが、間欠泉のようにぶわーーーと噴き上がった。
自分の中に突如として湧き上がった中の人への不信感は、私自身にとっても想定外で、手に負えないものだった。
αをフォローし続けたら、またこんなツイートを前触れもなく見せられ、頭に急激に血が上るかもしれない。
今後もこんな形で精神を掻き乱されるくらいなら――もう、フォローを外そう。
それはとても自然な決断だった。
否応なく紐付けられる、作品と作者の人間性
一連の出来事を振り返って感じるのは、SNSが社会に浸透した今の時代に、純粋に作品の善し悪しだけでアーティストを評価することの難しさだ。
公募展のような特殊な文脈の中では可能でも、アーティストの発信する言葉やそこに表れる思想が簡単に検索できてしまうネット空間では不可能だ。
少なくとも私には。
私は、αの作品の質が下がったわけでもないのに、中の人の言葉から滲み出る思想に相容れないものを感じ、実質的にファンを辞めた。
作風の変化によってアーティストに興味がなくなったことはあったが、作品と直接関係ないアーティストの思想を理由に離れたのは今回が初めてで、私自身も驚いた。
SNSがない時代だったら、アーティストの人間性を推し量る手段は限られ、純粋に作品の好き嫌いだけでアーティストを追いかけるかどうか判断できた。
しかし、アーティスト自身がSNSで様々な発信を行うことが普通になった現代は、作品には表れないアーティストの内面世界もSNS上で可視化されてしまう。
このことが新たなファンの獲得に繋がることもある一方、今回のような事態も生まれる。
一昔前なら、αの中の人は、自分の中にある「男のダンディズム」信仰を悟らせることなく、純粋に写真作品だけを見てもらうことができた。
私はこんな形でαのファンを辞めることもなく、時折アップされる作品を純粋に楽しみ続けていた。
つまり、かつての方が、私は純粋な鑑賞者・批評家でいられたのだ。
もちろん時計の針を元に戻すことはできないし、作品の質でなく作者の人間性によってアーティストへの評価が左右されるという流れは止まらないだろう。
それはある程度仕方ないかもしれないが、純粋な鑑賞者・批評家の目で作品と向き合うことが求められる場では、SNSにおけるアーティストの言動というノイズをキャンセルすることも意識しなければならないと思う。
後日談
この記事を書くにあたって、もう一度αのタイムラインを確認してみた。
もし中の人が「内沼さんのクラファンに名乗りを上げていない頑固親父の書店を見つけ、支援しました!」とでも報告しているなら、一連の批判を撤回しなければと思ったからだ。
あのツイートが、助けを求める書店への批判ではなく、助けを求められず耐えている書店にも目を向けようというメッセージとして投稿されたものであれば、私が中の人に抱いた怒りは的外れだったことになる。
αの更新は、2020年に止まっていた。
頑固親父がやっている書店の支援をしたという報告もなかった。
私の中に湧き上がった中の人への不信感は、コロナ禍という非常事態の中で溜まっていたストレスによって増長された部分もあったのかなと思っていたが、コロナ禍を過ぎた今になって振り返っても、それなりに筋が通っていると個人的には思う。
(誰かの目には「クソフェミのヒステリー」として映ったりもするのだろうけど。)
中の人は、私がフォローを外したことを認識していただろうか。
時折「いいね」していたフォロワーが離れていったことに、何かを感じただろうか。
言葉を交わしたこともなかったし、理由を説明するほどの間柄でもなかったから、私は無言で離れた。
でももし中の人が何かを感じていて、理由を知りたいと思っているなら、説明したかった。
SNSによって得られた繋がりや情報のお陰で、私の人生は確かに豊かになった。
しかしSNSのせいで、前例のない問いに度々直面することになったのも事実だ。
SNSを辞めるという思い切った決断ができない私は、今後も「SNSがあってよかった」と「SNSがあったばかりに……」の間を往復し続けるしかないのだろう。