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ゴジゲン「雲のふち」の衝撃:滑稽な情熱の季節が静かに終わってゆく

2024年11月末、下北沢駅前劇場で、ゴジゲン第19回公演「雲のふち」を鑑賞した。
観終わって、前例のない驚きに襲われた。端的に言うと「これ本当にゴジゲンの劇?」という気持ちになった。実は今回の公演は、いつも脚本を書いている劇団主宰の松居大悟ではなく、ゴーストライターに依頼した脚本でやってるんです、と言われても納得するぐらい、異色の作品だった。

私はこれまでゴジゲンの過去の6公演を観てきて、座長である松居大悟の映像作品やラジオもある程度チェックしてきた。こうした一連の鑑賞体験から、「ゴジゲンらしさ」「松居大悟らしさ」を自分なりに解釈してきたつもりだ。だが、「雲のふち」では、私が「ゴジゲンらしさ」「松居大悟らしさ」だと信じてきたものが、ほぼ消失していたのだ。

今回は、この「雲のふち」ショックを、過去の舞台や映像作品を振り返りながら掘り下げたい。
(なお、2024年の舞台の話を2025年になってから書くなよと自分でも思う。年末は実家の断捨離で忙しくて。。。)

「雲のふち」概要

俳優の佐伯と水島が、ベンチに座って喋っている。2人は付き合いの長い演出家の小野田に引越しの手伝いを頼まれ、待ち合わせ場所で時間を潰していた。最近観た映画について、熱く語り合っている。
2人は同じCMのオーディションを受けていた。選考に通らなかった佐伯に「どうだった?」と聞かれ、自分も駄目だったと答える水島。
水島は、俳優をやめて実家のある北海道に帰るつもりだと佐伯に告げる。自分と同じように俳優を続けると思っていた仲間からの突然の告白に、佐伯は動揺を隠せない。

少し離れたところにあるサッカー場には、谷津広(東迎昂史郎)と、その娘である高校生のクニコ(大渕夏子)がいる。サッカーの試合を終え、大きなスポーツバッグを肩から下げて戻ってきたクニコに、なぜ試合の後にチームメンバーに挨拶しないのかと広が説教を始める。自分の人間関係に口出ししないでほしいと言い返すクニコ。険悪な雰囲気になった2人は、離れて歩きだす。

クニコは、俳優たちの脇を通った際、2人の会話を耳にして立ち止まる。
「俳優さんなんですか?」
あまり顔が売れていないことに引け目を感じながらも「はい」と答えた2人に、少女は色々と質問を始める。比較的愛想のよかった水島と連絡先を交換し、クニコは去っていった。

俳優たちのもとにようやく演出家がやってきて、3人は引越しの段ボールを運び始める。
そこに突然、若い男・紀夫が現れ、今日の夜は部屋の電気を消してほしいと一方的に語り出す。
3人は断るが、紀夫は、今夜このマンションの向かい側にある高台で女性に告白するので、マンションの照明で「すき」という文字を作る必要があるのだと譲らず、小野田は電気を消すことを約束させられる。

後日、俳優業に興味があるというクニコが、水島のオーディションを見学しにくる。実は水島は、佐伯が受からなかったCMのオーディションの最終選考に進んでいたのだった。
好奇心のままに大人の世界に分け入ろうとするクニコに、なぜそんなに貪欲でいられるのかと疑問を呈する水島。クニコは、演劇や表現に興味を持ったのは「はるかちゃん」の影響だと語り、「はるかちゃんができなくなってしまったことに、せめて自分は挑戦したい」と静かな決意を口にする。
この時のクニコは、実は家出中だったことが後で明らかになる。

以降、物語は6人の登場人物の人生が小さく交差しながら展開し、クニコが父と再会して家に戻るところで終わる。
断片的な会話や仕草から、クニコが部活の人間関係に困難を抱えており、そこに「はるかちゃん」が関係しているらしいこと、広はクニコが沈みがちなのは猫がいなくなったせいだと勘違いしていること、佐伯が誹謗中傷目的のSNS投稿や落書きを日常的にやっているらしいことなどが仄めかされる。
しかし、それぞれの抱えている事情は最後まではっきり語られず、もちろん問題が解決することもない。

作品を貫いているのは、同じ時間を過ごしていても、相手の中には必ずブラックボックスがあって、完全に分かり合うことはできない、というある種の諦観である。
目の前の人を形作っているのは、私たちが知り得ないその人の過去だ。
もちろん同じものを見て感動することはできるが、その感動すらも本当は少しずつ違っている。
決して重ならない領域、触れられない領域がありながら、それでも関わってゆく、それが人間関係というものだ。
そんな松居大悟の人生観が、些細な出来事の連なりからしみじみと迫ってくる作品だった。
おせち料理で言うと、煮しめの椎茸のような深い味わい。

失われたゴジゲンらしさ①:男たちのわちゃわちゃ

上記の「雲のふち」で完全に封印されたゴジゲンらしさの一つは、「男たちのわちゃわちゃ」だ。

ゴジゲンの舞台の多くは、男性のコメディータッチの群像劇である。冴えない男たちが自意識をこじらせたり、女性に一方的に思いを募らせたり、ヒーロー戦隊ごっこを始めたりといった生産性の低い行動に勤しむ様子がユーモラスに展開される舞台は、何かを深く考えさせるような作風ではないものの、観終わると温泉宿でだらだらした後のように心がほぐれる。

もちろん、登場人物が「性愛経験の多い男の方が偉い」という価値観を内面化していたり、女性を極端に理想化したりするなど、近年問題視されているホモソーシャル的な側面もあることはある。
だが、そういった男性社会のヒエラルキーの下の方でくすぶっている男たちが冴えないなりに結束し躍動する様子は、そういったヒエラルキーに縛られない別の生き方を提示しているようにも感じられるので、観ていてそこまで嫌な思いをしたことはない。

※映画化された「君が君で君だ」(劇の原題は「極めてやわらかい道」)や「くれなずめ」などを観ると、男たちのわちゃわちゃの雰囲気が分かると思う。舞台の映像はDVDを買えば観られるが、ちょっとアクセスしづらいかも。

しかし、「雲のふち」には、こういった場面がなかった。
まず、コメディー要素がほとんどない。ところどころ笑える台詞はあったが、人間同士の分かりあえなさを真摯に描いている性質上、「楽しかった!」でスルーさせない深みがある。

キャスト6人のうち5人は男性で、物語の軸となる俳優仲間の2人が語り合うシーンも多いが、仲間意識を感じさせるエピソードがない。
仲間同士でも俳優業への思い入れにずれがあったり、一方は誰にも言えないダークな側面を持っていたりする。
男同士の関係で生まれるものは、友情や連帯といったポジティブな要素だけではない。
今までのゴジゲン作品では、あまり語られてこなかったことである。

失われたゴジゲンらしさ②:現実に抗うエネルギー

「雲のふち」で失われたもう一つのゴジゲンらしさは、現実に抗うエネルギーだ。

私がこれまで観てきたゴジゲン作品や松居大悟による映像作品の多くは、ままならない現実に直面した主人公たちが、それでもがむしゃらに現実を変えようとぶつかってゆく熱量、暑苦しさを特徴としている。

この傾向がよく表れているのは、映画「アイスと雨音」だ。
公演2週間前に舞台の中止を告げられた6人の若い俳優たちが、意地になって稽古を続け、公演日に大人たちの制止を振り切って劇場に乗り込む。
なぜか楽屋に用意されていた衣装を身に纏って舞台へ踏み出した6人は、客のいない劇場で全力で役を生ききる。
舞台の打ち切りという現実は変えられないが、一円ももらえなくたって、誰にも見てもらえなくたって、私たちは表現者なんだ!という6人のエネルギーに圧倒される。
情念のこもったMOROHAのラップも、作品の火力を強めている。

こういった熱量は、舞台であり映画化もされた「くれなずめ」「君が君で君だ」(原題「極めてやわらかい道」)、舞台「朱春」、映画「私たちのハァハァ」といった作品にも共通している。
仲間の死、芸人をやめなければならないこと、好きな女性を幸せにできるだけのものを持っていないこと……各作品の主人公は、いずれもままならない現実に直面する。
基本的に、現実が変わることはない。
それでも主人公たちは、理想を手放さず、時に滑稽な姿を晒しながらも突き進む。

それに対して、「雲のふち」には、上記のような熱量を持ったキャラクターが一人もいない。
俳優を続ける佐伯も、情熱ゆえに続けているというよりは、消去法的に俳優を続けているような雰囲気を湛えている。
クニコだけは情熱というか譲れないものを持っているが、それを脅かす現実が何なのかは明示されないし、それと闘う姿を見せる演出もない。
松居大悟がここまで低温な作品を世に出したことが、ただただ意外だった。

まとめと補足

「雲のふち」鑑賞後の余韻を思い返してみて、人間は否応なく変わってゆくのだなと強く感じた。
松居大悟が既存の作風を捨てる時が来るなど全く想像できなかったが、今の気分はこう、ということなのだろう。

今回の変化は、男たちのわちゃわちゃや現実に抵抗するエネルギーに触れたくてゴジゲンを推してきた人たちを切り捨てるリスクを孕んでいると思う。
こうしたリスクを負っても、自分が表現したいものに忠実でいようとする勇気が素晴らしいと感じる。
私自身は、今後もゴジゲンの変化を見届けたい。

また、ゴジゲンは、所属俳優であり「劇団献身」主宰でもあった奥村徹也のパワハラ問題が浮上して以降、度々批判に晒されてきた。
パワハラは劇団献身の稽古で起きたことではあるが、加害者の所属劇団としてどう責任を取るのが正解なのか、恐らく現在も模索している。
ゴジゲンの様々な対応を見ていて疑問に思う点もないわけではないのだが、劇団から除名して「もう彼はうちの劇団員ではないので関係ありません」と突き放すような楽な道を選ばず、何をどうすれば償いになるのか共に考え責任の一端を引き受けることを選んだ劇団の姿勢に、私自身は一定の誠実さを感じている。
奥村徹也とゴジゲンが、加害者はどうすれば自分のしたことを償えるのかという問いに真剣に向き合い、必要な時間とプロセスを経て、彼らなりの答えに辿り着いてほしい。


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