上にまいります

学芸大駅が最寄りの目黒にある「CLASKA」8Fにて
チーム夜営の新作舞台「上にまいります」を観劇。
http://team-yaei.com/next-stage/

明日の公演(もう今日か)もあるのでここから先は
恐らくネタバレも含んでしまうことをご了承ください。

まず見た感想としては「意外とシリアスだった!」
現実と見せかけて非現実的な設定だけれど、月へ行くエレベーター、、、
あ、なるほどそういうことかという感じ。

いわゆるメンヘラコミュ障な主人公(に当たるのか?)の女の子は
(あぁ、そういえば中高の時クラスにひとりはこんな感じの子っていたなぁ)と思わせるような、ちょっと世の中と適当に暮らして行くことが難しい女の子。演技がもう絶妙で、そこがまた現実感を生み出しているのかなと思う。

物語の中盤までは、普通の、というのもあれだけど
普通の非現実的な月へ行くエレベーターと男女のお話、、、かと思っていたけれど、カメラマンを生業としている男性のカメラボックスから血液の入った輸血袋が出てきてから話は急展開、、、、

見る人が見たら、女の子の演技の演出はやりすぎと思われるかもしれないけれど、あれは私はかなりリアルなんじゃないかなと思う。多分、ああゆう感じでああゆう生活している人、東京にはたくさんいるんじゃないかなって。

私も東京に住んでいるから、恐らく他の地方の方たちよりもすれ違う人や見知らぬ人を見る量が東京は多いんだろうなと思ってはいたけれど、あそこにいる見知らぬあの人にも、その人だけの物語はあって、もしかしたら明日死のうとしてたり、逆に明日誰かにプロポーズしようとしてたり、奥さんが臨月だったり、、、
そう思うと、こう考える一瞬前まで考えもしなかった赤の他人のことがだんだんと愛おしく思えてきたりするから不思議だ。私も、気の抜けた力無い顔でスマホをいじって半蔵門線に乗っている姿を、誰ともない誰かに見られている。数え切れないほどの人とすれ違う。

劇中のセリフで、「人は一生で何万人もの人とすれ違ったり見かけたりするけれど、じっくり話して知り合いや友人になる数はそのうちの300人だけだ」というのがあった。
正直、「意外と多いな」というのが私の感想だけれど、その300人で私の人生のほとんどの会話が構成されていると考えると、ゾワっとした感覚になるとともに、今関係を持っている全ての友人知人のことをもっと深く知って、きちんと付き合いたいとも思った。

驚くほどに、人は人のことを知らないなぁとつくづく思う。
知ろうとしても、知れることはごく一部だ。
でも、それでもいいんじゃないかなとも思う。
ほんの少しでもそこに自分以外の人生もあるということを意識できるだけで
けっこう世界の見え方も変わるような気もする。


私は美大の友人に誘われてチーム夜営の舞台を観に行くようになったのだけれど、いつもいつも脚本と演出とそれが行われる場所のリンクの凄まじさに圧倒されている。例えば劇団四季だったり、大きな劇場での演劇は、そこに箱があり0から作られるけれど、チーム夜営の舞台は、それが行われる場所も含めて演出になっていて、それが今回も素晴らしくて素晴らしかった。

映像投影の方法も内容も、途中で出てくる模型の大きさや高さも、カメラの演出も、そして役者さんが3人なのに登場人物は3人ではないところも、衣装も、「うまいなぁ、、、!」とつい上から目線な感じで言いたくなってしまう。
アフタートークでのゲストの教授さんとチーム夜営3人とのお話もライブ感があって絶妙だった。話の内容もかなり興味深かったけれど、私が一番興味を引いたのが「男性の作り手」である。私は服を作る女子大だったから、「何かを創作する男性」という存在が身近ではなくてそれに対する免疫というかそういうのがなくて、「あぁ、そうか、こういう方たちが作っているのか」と、なんというか不思議な気持ちになった。あの、ものづくりをする人の独特の雰囲気。知識が詰まりに詰まっていて天才的な風を感じて、私はちょっと登壇されていた方々に怖気付いてしまった。


この舞台の中でお気に入りのセリフが
「おじさん、おばさん、お兄さん、お姉さん、この中で一番危なくないのはどれ?!」「お姉さんが危険じゃなくなるとおばさんになるんだよ!」(丸々あっていないかもだけど大体こんな内容)というエレベーターガールのセリフ。笑った。


今度都会まで出かけた時は、少し隣の他人の人生を妄想してみようと思う。
近未来的な設定と伏線ばら撒き回収型という私の好きな組み合わせで、
心豊かにさせていただいた素敵な作品でした。


-----追記-----

パンフレットのまえがきで、都会の木の下に置き去りにされたサラダ油の話が載っていて、その、ある種のフィルターをかけて「それはありそうだ」「この場面だからありえる」みたいな、その時の小さな「気付き」や「感動」「感受性」的なものを見過ごすことがすごく多い人生だなと私は私自身に思う。

こないだ自転車通勤している会社から帰宅している途中に、おじいさんが道の真ん中で座り込んでへたってしまっているのを視界の端に捉えた。一瞬「暑さでやられて歩けなくなっちゃったかな?」とか「転んじゃったからかな?」と思ったけれど、その次の瞬間に「でもここら辺だと変な人多いし、ホームレスのおじいさんかも」と考えをすり替えて通り過ぎてしまい、とても後悔した記憶がある(通り過ぎてすぐ、他の誰かが声をかけていた)。

あれ?おかしくない?とか、逆にウワァ!めちゃくちゃいい!ということも、面倒臭さなのか都合の良い何かのフィルターに通して見過ごしていることの多さ。それは幼少期からの私にも言えるのでは、、、と過去を振り返って鳥肌がたった。基本的に無干渉なのかもしれない。やりたいことをやっていると周りからは言われているけれど、そうれは果たして本当なのか、、、?と思う。


そんなことまで考えさせられてしまった、サラダ油のお話。

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