みずくさの根 第1号
昨年の秋にしたためた文章です。
これから少しずつ記事をアップロードしていこうと思います。
伊勢河崎一箱古本市への出店にあたって
自分の手で何かしようと思い、早くも4年ほど経った気がする。
きっかけは働く中で出てしまった体調不良で、決して前向きな動機ではない。その理由が前後どちら向きであろうが、やらないわけにはいかない現実と仲良くするためには、前をどの方角にするか決めた方が楽しくできるはずだと考えた。
最初は飲食店はどうかと思って居抜き物件を探していたが、思い至らず保留し続け、選択肢から消えていた。飲食店で働いていた経験上、あまり気乗りがしなかったのだ。ハードドリンクにしても、コーヒーや紅茶にしても、あまりこれといった理由を見出せなかった。もう出し切られている気さえしたのだ。
小さい頃から詩や物語を書くと、顔を合わせる大人全員に読まれ、喜ばれた。字の読み取りに困難がありながらも、覚えさせられることも音読させられることのない言葉たちと遊ぶのは、私にとって夢のように自由であった。文字であれば、相手が発する言葉や表情を恐れずに、黙り込んだり吃ったりせずに表現できる。これは幼い自分に唯一許された自由であった。
読まされる本でなければ脅威ではなかった。草原にポケット図鑑を持ち込んで、季節の動植物を調べて名前を知った時、この上ない喜びを感じたことは鮮明に覚えている。図鑑は黒と赤のインクで刷られた、それらに関する詳細や研究、日本各地の動物園名・水族館名・博物館名まで読み込んだ。少しずつ区切りながらでしか読み取れなくても、図鑑は嫌な顔をせず、読み取るのが遅い私が読むのに付き合ってくれた。図鑑は私にとって恐れずに学べる良い先生であった。
本は持ち主に読むことを強要しない。早く読むことも強要しない。所有を制限することもない。音読が下手くそでも睨まない。読めない漢字を調べている間も静かに待ってくれている。本は、本の中にある全てを、読み手の都合に合わせて読むことを許してくれる。このことに気がついて、そのありがたさを広めたりできないかと思った。その中で出会ったのが、独立系書店という形式の書店であった。何かと恩のある本に恩を返していくためにも、会えない人や行けない所のことを知るという心地よい刺激のためにも、本というとんでもない量の情報に囲まれて安心感を得るためにも、これは良いのではないかと思えた。
これからの話
現在、私は無職だ。ボランティアをしたり、こうして出店させてもらったり、これからは地域や御木曳のこともしたいと思っているので、決してニートではない。インドアであることは認めるが。そろそろ開業届とか用意しないといけないな……と思っている今日この頃。
前述したように、本を主に扱った商いをしようと思っているのだが、普通にやっていては商売にならない。そこで考えたのが『やってくる本屋』だ。
新聞は毎朝家に届き、小学館の学年誌や漫画雑誌を本屋さんに配達してもらって買う家庭で育っているし、郵便配達も仕事にしていたため、紙類は家までやって来るものという感覚が根底にある。そこで思いついた業態だ。
いろいろ考えたり話したりする中で、人が集まるところに情報が集まるなら、情報の塊である本が集まっているところを作れば人が集まるし、人が集まっているところに本があれば情報交流の連鎖が起きて活活発な交流が生まれるのではないか?と考えた。このことから、どう広げられるかは未知のものであるが、公民館やコミュニティーセンター、団地や住宅地の中の公園、地域の催し、学童保育の施設からデイサービスをしている施設まで、いろんなところに本屋として出向いてみたいと考えている。その場に合わせた選書をして、バイクに積めるだけ積んで出向く形を取りたいと考えている。
出向いての販売に重点を置くが、本という場所をとる品を扱う関係上、店舗兼倉庫が必要でもある。どこかいい場所はないだろうか……と、そちらも検討中だ。どこか住んでも良いお家があれば、是非……
何かしら、ちまちまと、こまごまと、やっていこうと思います。
得体の知れない怪文書をお手に取っていただき心から感謝申し上げます。
皆様方が健康で幸せでありますように。
令和5年10月 (これから)店主(になるはずの) 辻村 真衣
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