モヤ
「もや」
体からモヤがでるようになった。黒くて臭いはないやつ。
3日前からだ。初日は、疲れで幻覚でも見えているんだと言い聞かせ眠ったが、朝起きたらモヤで部屋がいっぱいになっていた。急いで窓を開けたら、モヤは吸い込まれるように外へ出て昇っていった。どうやらモヤは軽いらしい。イメージとしては蒸気に近い。保湿用スチーム機器から出て、たちどころに見えなくなるあの蒸気。スチームと同じで無害らしい、かと言って有益ではない。
けれど体から黒いモヤが出るなんて嬉しいことではない。
目の前には焦げ付いたトーストとブラックコーヒー。指先から出るもやを掴んで擦ってみた。するとモヤはネリケシみたいな黒い塊になってコーヒーに落ちた。音も液体の揺らぎも無かった。物質ではないらしい。だけど気持ち悪いからコーヒーは飲まなかった。
「今日も帰り遅くなるからね、野菜炒め冷蔵庫にあるからチンして食べて」
他人には見えないらしい。いつもと変わらぬ会話、いつもと変わらぬ焦げ付いたトースト。
結局、母は私と目を合わせることなく家を飛び出した。
3日前。中河原君に告白された日だった。
中河原君はサッカー部のキャプテンで、前回の定期試験は全校3位だった。バレンタインデーには山盛りのチョコレートを持ち帰るために予備のカバンを持ってくるし、イジメだってやめさせるし、3匹飼ってる犬の散歩だって欠かさない。それが中河原君だ。
昼休みの教室で声をかけられ、放課後屋上に来て欲しいと言われた。聞こえないフリしながりクラスの全員が聞いていた。告白だって、屋上扉の前に数十人の気配を感じながら受けたから、何を言われたか覚えていない。とにかく意味がわからなくて、私は待って欲しいと伝えた。
中河原君は聖人君子のような笑みで去っていったが、帰り道すれ違うクラスメイトの視線は尖っていた。
モヤに気づいたのは、その日家に帰ってからだ。
原因は解明した。解決法を考えよう。
それは答えを出すしかないだろう。中河原君と付き合うのか振るのか、選べばこのモヤはなくなる。
だけど私と中河原くんは釣り合うわけが無い。女子にはボコボコにされて学校中に敵をごまんと作ることになる。
私は範馬刃牙じゃない、1人でそんなに大人数を敵に回す勇気なんてない。
釣り合わない。本当だろうか?
中河原君より私の方が劣っている。本当だろうか?
中河原君はサッカーが上手い。校内だと間違いなく一番、県大会準優勝と聞いたことがあるから、仮に県内2番目にサッカーが上手いと仮定する。
私は私の得意なことを考えた。
私はパッチワークが好きだった。
パッチワークでなら関東地方でいちばん上手い自信がある。ということは特技において私は中河原君よりも優れているということだ。
頭の良さにおいてはどうだろう、中河原くんはいつも10番以内に位置している。安定的に私は50番台を取っている。しかし、私には明確な理由がある。それは数学をやる気がないからだ。中学校に入ってからの数学に意味を感じ得なくなった。それから私は数学の勉強を辞めた。意味が無いから。
数学が平均点を取れていれば私は校内5位以内には毎回入っている。ということは頭の良さにおいても中河原くんより優れている。
最後に性格、誰にも優しく、犬の面倒も見ていて、イジメも止める。
私も性格が悪いとは思わないけれど、中河原君と同じことは出来ない。疲れるし、ストレス溜まるし、自分以外の人のことを考える余裕なんてない。
大人しく負けを認めた。
結論私と中河原は釣り合っていない。私の方が中河原君より優れているから。
私は中河原くんを振ることにした。
休み時間中、中河原くんがトイレに行く時を見計らって人目につかないように声をかけ体育館裏の雑木林の中の百葉箱の前に呼び出した。
理由を聞かれたけど、答えなかった。傷つけてしまうから。
次の日から私に対するいじめが始まった。上履きは男子便所の大便器から見つかり、私の机は撤去され、私の写真はクラスラインのアイコンになった。
私は上履きを洗い、雑木林から机を運び出し、アイコンを好きなコケシの画像に変えた。
それでもモヤは出続けていた。
「ご飯食べられるだけで幸せです」
夕方6時のグルメリポーターの言葉に涙が出た。
それは止まることなく溢れ出て、私を洗った。
後に残ったのは、ピチピチの私の体とむくれ上がった不細工な顔だけ。
モヤは出なくなった。