管鮑の交わり
杜甫の詩の一つに、「貧交行」というのがある。
なんでも、杜甫が進士の試験に落第して、都に寓居していた当時、旧友をたよったが、相手にされなかったので、作ったものだそうだ😅。
手のひらを返すように、たちまち形勢が一変するのが世の習いであり、こうした軽薄きわまる輩が多くて、いちいち問題とするにも足りない。
あなたはご存知ありませんか、あの管仲と鮑叔牙との貧乏時代の友情の深い交際を。
こうしたりっばな人間の道を、今の世の人は、土くれのように捨て去ってしまっている。
これだと、褒めているのは管仲より、むしろ鮑叔牙?
管仲といえば、『論語』憲問篇に、子路が孔子に「管仲は仕えていた公子・糾が死んだ時、殉死しなかったので、仁とは言えませんよね?」と迫った?章がある。
子路が言った。「桓公が公子糾を殺した時、(補佐役の)召忽は殉死しましたが、管仲は死にませんでした。仁とは言えないのではないでしょうか」。先生は言われた。「桓公は、諸侯を集めるのに武力を用いなかった。これは管仲の力だ。誰が彼の仁徳に及ぼうか。彼の仁徳に及ぼうか」。
この章のすぐあとも、子貢がやはり孔子に「管仲は仁者ではないのでしょうか?」と質問する章がある。
この時も、孔子は「管仲は桓公を諸侯の覇者にして天下に秩序をもたらせた。彼がいなかったら、我々は髪をザンバラにし、左前に着物を着ていただろう。」と管仲の手腕を評価している(八佾篇では、管仲を、礼にのっとっていないと批判しているが)。
孔子がこのように、管仲を批評できるのも、管鮑の交わりがあったから、ということになろうか?(桓公の補佐をしていた鮑叔牙のとりなしによる。)
見出し画像は、杜甫が徒歩ってギャグしてしまった😅。ホントはもっと明るい感じにしようかと思ったのだが、徒歩の詩は哀愁に満ちたのが多くて、こんな風になってしまった😅。
この杜甫は「大杜」とか「老杜」と呼ばれていて、杜牧は「小杜」と呼ばれているそうな。
🐻