金星か木星か
僕は赤子ではありません。もうすぐ大人になるのです。だから、嫌なことがあっても、心の中で沢山のフィルターにかけて濾過し、綺麗な綺麗な空気を吐き出すのです。
といっても、これがなかなか難しい。うまくできた試しがありません。僕は21になる立派な大人のはずなのですが、他の人間に言われた生ゴミにかけるような言葉を、上手く砕くことができませんでした。大人になれば、そつなくこなせるようになる、そう思っておりました。でも、そううまくはいかないようです。
こんなことを考えたのは、少し遡りまして3週間ほど前、小さないざこざをおこしました。それも、仕事場の人間や友人でなく、実の親とです。
喧嘩をしました。僕は悪くないです。むしろ、なぜ悪いのか、これがわからない。
ことの経緯は、僕はこれまでに愛知県に泊まりで行く用事がありましたので、新幹線で行き来していたのですが、せっかくです。新幹線以外の手段で家まで帰ってやろうと考えたのです。ただ座って眺める景色、駅弁、リクライニングを倒して寝る。もう何度も体験しましたから、それならば、全く知らない電車に乗って、知らない景色や、看板や、土地の名、森の顔色、反対側の電車、ホームの形、モーターの音、そういった初めてと言うロマンを感じたい。僕はそう親に話しました。いやしかしこれが親には刺さらなかったらしく、全く、正直にこの人にはロマンがないなと思いました。帰る時間が遅くなるだの、迷子になったらどうするのかだの、それはそれは、目の前のことにしか興味がないのだな、と。辛辣な言葉も吐き捨てられ、僕はもう駄目だと堪忍しました。何を言っても、きっとこの人と僕は相容れない。実の親子なのに、こうまで違うのか。それともあれか、僕がおかしいことを言っているのか。でも今僕が言った言葉はなにも、空に浮かぶ島に行きたいとか、そんな空想劇ではないし、現実的に再現することが可能な範囲であるはず。なにがいけない。
僕はだんだん嫌気がさして、その人と話すのが嫌になりました。だって、話すとまた、冷たい棘が真っ直ぐに飛んできますから。そんなのごめんだ。なら、何も言わず、何も伝えず、ただ一人、紙に向かって自分のことを吐き出すほうがよっぽどいい。
その人に言いました。暫くは話したくない、と。話したところで馬鹿にされるくらいなら、話さないほうがいい、と。その人はもうしないから、なんて優等生の答えを伝えてきましたが、その言葉が一番嫌いな僕は、何も言わずに部屋に戻ったのです。
それから少し経って、僕はまだ、その人に対して笑わない人形のように接していました。するとその人はなぜか怒っていたのです。なぜ?僕の方が怒っているのだけれど。理由は聞くまでもなく、いつまでお人形さんになっているのか、と言うことでした。わがままなのは僕の方ですか。僕はその人から離れたかったから、話さないと言うことを一昔前に伝えています。どうしてあちらはあそこまで憤っているのでしょうか。わかりません。わかりませんよ、全く。
心のなかの落ち葉が、せっかく乾いてきて焼き芋に使えそうだったのに、また雨に当たって濡れてしまいました。どうしてくれる。
西日が部屋の窓から差し込む時間。僕はひたすらに考えておりました。間接照明の色にセットしたデスクライトを付け、日程帳を書き込むふりして勉強机に向かい、インクがもうすぐなくなるであろうペンを利き手と反対の左手で握り、あたかも作業をしている雰囲気に洒落込む。これは僕の居場所作りでした。今回のことは、僕の心があまりにちっぽけで、余裕がなくて、わがままなせいなのか。デクノボーのような人間だから、あの人の考えることも理解できていないのか。まだまだ心は子どもで、体だけが大きくなって、威勢だけの良い可哀想な人間になったのだろうか、僕は。考えても考えても、言われた言葉を噛み砕こうとしても、棘の多いものですから、まずは棘を抜かねばなりません。それから小さいのと大きいので分けて、
これでは時間がかかりすぎる。頭の中が沸騰するヤカンのようにひゅーひゅーと蒸気でいっぱいになり、まずいことになりそうだと悟った僕は、水筒に水少しと、ハンカチ、携帯をもって、顔を真っ青にしながら、ノロノロと家を出て行きました。
空が高い。空気はどこか、ほんのりと湿気を帯び、甘い匂いがする。この時期になると、この甘い匂いが鼻につきます。みずみずしくも、きゅっとしまったほのかな花の香り。近くに寄ればなぜか匂いは薄まり、少し遠くに移動すると、ここでふわりと香る。これが不思議で、そして楽しい。人様の家の木なのにも関わらず、遊んでしまうのです。こっちはどうか、あっちはどうか、ここはよく香るなぁ。風が一つひゅんと吹くと体めいっぱいにその香りを吸収できる。ぼけりとその小さな橙の花たちを見ていました。濃い緑の葉と、橙の色の差が美しいと感じる。そこにこの素晴らしい夕暮れの空の色を加えてみろ、そら、言葉にならないほど綺麗だ。また一つ風が吹きました。そしたら今度は田畑の泥混じりの香りが飛んでくる。この匂いは好きですが、せっかくの甘い香りが台無しになるので、今日はいただけません。甘い匂いを堪能したいのです。どうか、譲ってはくれませんかね。今しかこの香りを味わえないのです。どうか、譲ってはくれませんかね。
僕は足元に注意しました。橙の花たちの一つが、寂しげに落ちているのです。せっかくの出会い、僕は携帯のカバーが透明だったことを思い出し、押し花のように間に挟み、この花の姿を愛でました。なんて可愛らしい形なんだろうか。丸みのある花弁は赤子のおててのようです。ゴツゴツとしたコンクリートの道に落ちていたものですから、そんな劣悪なトゲトゲとした場所から助けてやったのだ、という達成感から、不覚にも満足している僕の姿がそこにあったのです。
家に帰ってくると、何のために外に出ていたのか、かなり曖昧でございました。ただ、楽しい時間を過ごしていたことだけは、覚えています。親はお台所で夕食の準備をし、ネギだれでも出したのか、鼻につんとくる匂いが飛んできました。僕の鼻は甘い香りでいっぱいだったのに、お台所からやってきたその匂いは、甘い香りをすんなりと蹴飛ばしていきやがりました。許せませんね。これは。ですが本当に僕は何でここまでぽっかりと穴が空いたような心持ちなのでしょうか。大事なことを忘れている気がします。
今もこうして言葉の列を作っているわけですが。携帯を置いて机の上に向かっているときにふと気が付いたのですが、カバーの下が何か茶色い枯れ葉のようなものが入っていることに気がつきました。僕はその小さな枯れ葉が汚いなと感じたので、そっと取り出して塵紙に包んで捨てました。
この話、題目を考えてました時に愛知で出会った方のお話で、この花は金星なの?木星なの?どっちなの?と友人に聞かされ驚いた、と言うのがありまして、なんて愛らしい会話なのだろうと頭に焼きついたものを、そのまま題目としました。