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旅館の朝【滲み】1800字

「お母さんのお股から僕が産まれたって言うんなら、お父さんはなんでいるの?」

むくっと目を覚ましたら5時55分だったから、
5歳の僕は、これは探検に行かないとと思った。

 顔も洗わずにパジャマのまま靴を履いていると、「一緒に行くよ。」旅館の浴衣がぐしゃぐしゃで寝癖だらけのお父さんが、後ろの布団から声をかけてきた。なんでもかんでもお母さんと一緒が好きだが、この時はなんだか頼もしかった。

 旅館の裏の畦道から山へ入っていく。昨日大人たちがお墓がどうとか言っていた山だ。大量のヴオーーンという声がブーイングに聞こえる。
「ウシガエルはもう慣れたのか?」
お父さんが上から僕を見下ろして聞いてくる、ニコっとした無精髭で。

 霧ってはじめて。
怖さとワクワクがちょうどのグラデーションで、
僕の心臓あたりをさわさわしてくる。

 「もうウシガエル怖くないよ。蜘蛛も好きになったし、蛇に噛まれてもいいよう分厚い靴下を履いたよ。」「…….そうか。」
 怖さを隠そうとしていつもより早口で沢山喋ってしまった。
無口なお父さんにもそれを見抜かれている。
バレた恥ずかしさをほっぺに少し感じたから、ならもういいか、お父さんの太い親指を両手で掴んだ。掴んだままずっと歩いた。ぬかるんだ道が余計にぬかるんだ。
 
 早朝の雰囲気から、朝の雰囲気に変わった。
山の濃い葉っぱだらけのジメッとした空間に、
カビだらけみたいな木のベンチと小さな池がある、
お父さんから先に座った。僕は、どうしようかな、横に座らないでお父さんの正面に立った。立ったまま文字通りモジモジした。

 首元をぱしっ、あと腕も、肘のあたりもぱしっ。ふくらはぎもぱしっ。
どの蚊も大きいし、簡単に叩ける。
パシッと蚊を叩く度に、池が震える。
アメンボが驚いている。
もっと大きい音のウシガエルのヴオーーンには何にも動じないのに。

 「虫除けスプレーを忘れたね。」お父さんも自分の膝を叩きながら、言う。パシッという音がしばらく続く。
「おでこに蚊いるよ、こっちにおいで。」お父さんに促されるまま、ベンチのお父さんにてくてく近づいた。座る両膝の間まで僕がくると、お父さんは僕の両肩を掴んで、おでこにふーっと息を吹きかけた。くすぐったかった。
 


滲み_旅館の朝



 久しぶりにお父さんの膝の上に座った。背中がジメッと暑い。
遠くの方に旅館が見える。
周りの田んぼの水が少しピカピカしていて、保育園のビニールプールの時間でひとりぼっちだった時の事をなぜか思い出していた。
一際大きいウシガエルの声で我に返る。
お父さんが手を僕のお腹に回してきて、ぎゅっと感が少し強くなった。

 あれ?お父さんとって何話せばいいんだっけ?

 「しのちゃんが好きなんだけど、図工の時間にトイレットペーパーの芯で叩かれたんだ。」いやちょっと待て、なんでお父さんにこんな話を

 「僕泣かなかったけど、悲しい気持ちになって、しのちゃんのクレヨン全部折ったんだ。」おかしいおかしい、恥ずかしい恥ずかしい

 「そうしたらしのちゃんすごい泣いちゃって、僕は先生にすごい怒られたんだ。その時も泣かないで我慢したんだけど、お母さんがお迎えに来たらわーんっていっぱい泣いちゃったんだ。」こんな恥ずかしくてカッコ悪い話をなんでお父さんに山の中でしてるんだ??

 「しのちゃんのこと好きなのにまだゴメンが言えてないんだ。」言い終えたと同時にほっぺにチクっと感じたので、僕は自分のほっぺを瞬時に平手打ちした。まるでロボットの読み上げ機能終了の合図かのごとく、山の中にパシッという音が木霊した。アメンボも驚いてこちらを見ているに違いない。



 旅館を見つめながら、
姿の見えないウシガエルの声を聞いていると、
遠くにいるようにも聞こえるし、
耳元で聞こえている気もするし、
昨日の思い出なような気もしてくる。
鼓膜がウシガエルで満ち満ちた中、
耳元でじょりっという音で呼ばれた。
振り返ると、無精髭を人差し指で掻きながらお父さんが、
「それでいいんだよ。」と言った。



 ほんの少し上がった口角、髭の密度、深い二重まぶた、ほのかな鼻声、その全てを記憶した僕は、右手でお父さんの手を繋ぎながら山を降りた。

 いっぱいお皿が並べてある朝食を食べながら、痒い手や足を掻いていると、まだお母さんがガミガミなんか怒っている。
僕はお父さんと目が合い、二人ともぷぷぷとこっそり笑った。
 



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