民主主義的思考の終わり
【注意】猛言狂言の領域真っ只中の文章です。星乃珈琲店でこれを読んでらっしゃる方はパンケーキ待ちの時間を使ってお読み下さい。
ある動画(ここでは紹介しない)を見てまして感じたのは、もう日本には民主主義的思考をする習慣が亡くなった、もしくは終わったのだと思ったことです。
まずその石敷を敷きまくったのがアベシンゾー…とまでは言い切りませんが、口火を切ったことだけは言えるかと思います。つまり「民主主義的思考の終わり」は今日昨日に始まった話ではないということです。たまたまここで民主主義+思考という言葉を混ぜる発想が生まれ、もしくはそれをした人を見かけたと言うことです。同時に日本社会が世間が世論が民主主義的思考をしなくなり、「自民党ナイズされた全国民」またの言い方を、同調圧力にさらされた人達、パリピッタ人化した人たち、つまり強権的思考支配下の社会と言ったところでしょうか?
パリピッタ人って書きましたがパリピった人と打とうとしたんですが言葉の見た目が面白いので後でまた使います。
民主主義的思考の終わりとは書きましたが、そもそも日本には民主主義発祥の地であるヨーロッパのようなその元となる思考回路はなく、第二次世界大戦後に輸入された概念がその「民主主義の様な物」です。それと同時に出来たのが「日本は戦争をしない国」である事を定めた日本国憲法です。戦後の日本では「本当に戦争なんかゴメンだ!」という人たちによって、日本国憲法が文面通りに、強度的にはさし木でしかない民主主義の制度が運用されました。しかし「本当に戦争なんかゴメンだ!」という人達が年を追うごとに鬼門に入ると同時に、その気概がだんだん薄れて行くということになりました。
あっ、ここまで駄文を書いてこのまま行くと結論までに膨大な時間がかかりそうなのでマキに入ることにします。民主主義的思考と言うのは色々な要素を鑑みることから始まりそのアウトプットの一つとして選挙で投票する行為があります。しかしそれが実際に色々な要素を鑑み、そこから得られた自分自身の結論に沿った立候補者に入れた…からと言ってそれがそのまま実行に至ったことがあったでしょうか?ほぼ無いと言い切れます。
選挙に限って言うと結果が全てです。そしてそれが「いやいや俺はあいつのこと嫌いだしなんならぶっ殺してやろうと毎日思ってる」と思っていたところで所詮それが選挙結果を超えることはありません。もし超えたとしたら、自らの手を汚している事になり赤い回転灯が回る白黒のツートンの車に乗ってる人達のお世話になっています。それでも「多数派民意の総意だろうけど俺は違う」と言い続ける事は大事ではあります。
その点で今回の都知事選は、公約や政策を主張して相手に投票を呼びかけるといった民主主義的思考が終わりを告げ、バズる事これ即ち正義という構図が確立してしまったと言えます。その扉を全開どころか「台風一家」も入室出来るただの穴にしたの石丸伸二!オメーだよ!