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『キリマンジャロの雪』を通じてアッシュ・リンクスの死生観をのぞこうとして大火傷した話


※『BANANA FISH』を漫画もしくはアニメで履修しおえた人向けです。ネタバレしかないのでお気をつけください。



BANANA FISHの世界に魅了された人なら、作中にでてくるサリンジャーやヘミングウェイの小説を読みたくなる気持ちは、みんな一緒だと思う。
そしてそれらを読んで、ちょっと作品を深く知れた気がしたり、はたまた逆に混乱してしまったり、そういうことを繰り返しながら自分なりに向き合っていく。オタクなんてそんなもん。

ということで2021年に入ってからBANANA FISHの魅力にとりつかれた自分も例にもれず、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を読んだわけです。世の中からしたらかなり今更感はあるものの、アッシュが考えていたことだったり、原作者の吉田先生の意図したことだったりを、少しでもいいから汲み取りたかったから。短編だし、すぐ読めるだろうという思いもあった。そうしたらなんかもう、トラウマレベルで精神をすり減らしてしまったという、そんな話です。

すでにあらゆるところで多くの方に考察され尽くしてるかと思いますが、心を保つためにまずは自分の中で整理してみたくらいの、そんな温度感。こういう解釈もあるのね、という感じでどうかご容赦を。



ここから本題


アッシュが英二に自分の死生観を吐露するシーンで、彼はヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』を引用する。

キリマンジャロは高さ1万9710フィートの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰と称される。西側の頂上はマサイ語で「神の家」と呼ばれている。その頂上近くに、ひからびて凍りついた一頭の豹の死体がある。そんな高いところまで豹が何を求めてやってきたのか、だれも説明したものはいない。
(ヘミングウェイ著『キリマンジャロの雪』より)

※ここから『キリマンジャロの雪』のネタバレも全開なので、いやいや自分で読むんだい!という人はそっとページを閉じてください。

著名かつすばらしい文学なので私からなにか言うことはないんだけど、一応あらすじをざっくり。
この小説は、アフリカで狩猟中に重症を負ったアメリカ人小説家・ハリーが、病床の中で救助の飛行機を待つ間に、死に怯えながらこれまでの人生を振り返っていくというもの。北方謙三氏の言葉を借りるなら「キリマンジャロの頂きに壮絶な死を遂げた男の幻想的な苦悩の一日を描いた」作品である。そう、主人公は最後、死ぬのである。

1952年の映画版をみた人には衝撃かもしれない。だってグレゴリー・ペック演じる主人公は最後、救助の到着まで生きながらえたのだから。なんならジャンルは「ロマンス」に区分されるような、過去の恋愛遍歴の描写に重きがおかれていて、最後は奥さんとふたり助かってハッピーエンドだ。これぞハリウッド超改変の醍醐味というやつよ。

で、一方原作の小説では、死にゆく主人公が死と向き合う「静」の空気感がおそろしく生々しく、引き込まれるものがある。映画と違って主人公は最後、救助の到着を待たずして死ぬ。死ぬけども、本人がそれを自覚できていたかわからない。なぜなら彼は、来るはずだった救助の飛行機に乗って、キリマンジャロの頂上を目指す夢に包まれて眠ったから。

本来であればこれだけで文学おたくたちによる感想会が盛り上がると思うのだけど、今回のnoteではあくまで、BANANA FISHという作品を考える上でのひとつのツールというか、媒体のようなものとしか述べないのでよろしくお願いしたい。

そういった意味での感想としては、結論からいうと、アッシュの抱える孤独や死生観というのが想像以上に悲しいものだったというのを突きつけられてちょっとかなりしんどいなと、それしかない。しんどい。しばらく引きずりそう。現におととい読んでからもう二日間ろくに眠れていない。誰かたすけてほしい。そんな状況。


アッシュと豹

ここでアッシュの、豹に対する見解を引用する。

「俺は自分の死を思う時、このヒョウについて考える」
「ヤツはなぜ、何のためにそんな高地へとやって来たのか。獲物を追い彷徨ううちに、戻ることのできない場所へ迷い込んでしまったのか、それとも何かを求め、憑かれたように高みへと登り詰め力尽きて倒れたのか」
「ヤツの死体はどんなだったろう? 戻ろうとしていたのか? それともなお高みへと登ろうとしていたのか。いずれにせよ、ヤツはもう二度と戻れないことを知っていたに違いない」
(アニメ『BANANA FISH』13話「キリマンジャロの雪」より)

アッシュが引用した豹は、実のところ小説冒頭にしかでてこない。そのくせ主人公が半生を懐古しつつ死を意識するたび、読者の脳裏にちらついてしょうがない。どんどん弱っていく主人公をみながら、冒頭以降いっさい出てこない豹の存在に物語全体が覆われているような、そんな気さえする。あの豹はなんだったんだろう、主人公もあの豹のように死ぬのだろうか?そんな不安感が常につきまとう。

「豹は後戻りできないことを知っていた」というアッシュの解釈。BANANA FISHという作品においては、豹はまさにアッシュだ。ギャング抗争のどまんなかで殺人を繰り返すアッシュはもう「ふつう」には戻れない。かつて仲間に「絶対に殺人はさせない」と言っていた頃の彼はいない。だからアッシュは自由こそ求めど、一般的な平和を得る権利はないとわかっている。英二と日本に行くのだって、憧れはしても本気で願うことができていない。叶わぬ夢物語のような、そんな扱いだ。

そんな彼であるから、アッシュは豹とは違う、という英二の言葉にきっと救われたに違いない。英二の優しさは彼の心をおだやかにくるむ。ただ、英二が彼の本質的な思想・孤独を理解していたかというと、難しいところだ。ひょっとしたらアッシュも、理解してもらおうと思って豹の話をしたわけではなかったかもしれない。ただ英二にだけは、知っておいてほしかった。それだけだった可能性もある。(だって心から愛する人には自分のこと知ってもらいたいと思うのは人間の性だ)

ただ、「知る」と「理解する」は違う。
アッシュの抱える壮絶な孤独というのは、とどのつまり、自分の孤独を誰ともわかちあえないと「わかっている」孤独なんじゃないのか。もしくは「そう思いこんでしまっている」孤独かもしれない。

※2021.4.13追記 読書家の彼にとって本は、そんな孤独をすこしでも埋めるためのツールだった可能性がある。もちろん純粋な知的好奇心もあるだろうけど、本という存在はしばしば人を孤独から救う役割を担う。彼にとって図書館が特別な意味をもっていたことの理由にもつながる。


めざした先

小説のはなしに戻る。

結局のところこの小説は、主人公ハリーが、徐々に近づいてくる死に対して怯え、看病する妻につらくあたり、半生を振り返って現実逃避しながらも「どう死ぬか」「どう死を受け止めるか」という話でもある(と個人的には思っている)ので、冒頭で豹が頂上付近で死んだ理由を、読者は間接的に問いかけられているような印象を受ける。
小説を読んだほとんどの人は、アッシュと同じように「なぜ豹は頂上をめざしたのか」という問に自分なりの答えを探すことになるはずで、そしてそれは、この小説を引用したBANANA FISHにもあてはまる。

「なぜアッシュは図書館に戻ったのか」

ここまで踏まえればもう、『キリマンジャロの雪』の引用が、ただのキャラクターの深堀りのためだけとは言えなくなってくる。もっと作品全体に深く根をはったような、そんな吉田先生の意図すら見える気さえしてくる。

アッシュは言った。自分の死を思うときに豹を思い出すと。
たった一頭で雪山をのぼり頂をめざした豹は、壮絶な厳しい世界と孤独の中で死ぬ。その豹を十代の少年が何度も思い出すことの、なんて悲しいことか。山猫アッシュの想像する「いつかくる己の死」は、豹のように孤独の他ならないという表れにみえる。

「俺は死を恐れたことはない
 ただ、死にたいと思ったこともない」

死ぬ覚悟なんてとっくにできていた彼にとっては、ある意味で豹やハリーと同様に「どう死ぬか」が大事だったのだ。いつどこで死ぬかわからない自分が、いかにして死ぬか。彼が豹に思いを寄せる理由はそこだ。



結局のところアッシュは豹だったのか?という問は、それぞれ解釈があるだろうけれど、自分としては「もうひとつの豹の姿」なのかとふわふわ思う。アッシュが小説の豹とひとつ違うのは、目指した場所(=アッシュの場合は図書館)にたどり着いたってことだ。これはものすごく大きな違いだ。なぜなら豹もハリーも、目的地のすぐそばまでしか行けなかったのだから。

豹が行こうとしたキリマンジャロの頂上にあるという「神の家」。神の家とはなんだろう。ありがちな表現でいえば天国の入口か、魂の救済場所かもしれない。その神の家に豹は届かなかったけれど、アッシュは自分にとっての神の家、つまり図書館に足を踏み入れた。

愛する英二の魂に包まれて、アッシュはさいご、孤独ではなかった。
孤独に死んだ豹とは違ったのだ。

「なぜ図書館にむかったのか」の答はそこにある。


たとえ手紙を受け取ったあとに英二と会えていたとしても、どう死ぬかに焦点をあてたアッシュの考え方が覆らない限り、私たちが夢想するような、老いるまで英二と一緒の未来はアッシュに想像できないままなのだ。なぜなら彼はもう、自分が豹と同じで「後戻りできない」ことを知っていたから。

もしかしたら英二だったら、アッシュの考え方そのものを変えられたかもしれない。でもそうするには、ふたりにはあまりにも時間がなかったんだと思う。作中で1〜2年あったとはいえ、そこまで踏み込める安寧の場所と時間が、彼らには足りなかった……。

正直なところ、『キリマンジャロの雪』を読むまでは、英二の手紙がアッシュの考え(己の未来をどこか諦めてるような、英二と一緒にいたらいけないというアレソレ)を変えてくれて、だから彼は走り出したのかと思ってたんだけど、いま思うと違うような気がしてくる。なぜなら、もしそうなら、なんとしても生きようとするはずなんだ。生きて、英二に会おうとするはずなんだよ。そうしなかったってことはさ…、………、そういうことなんだよ…………、…、…地獄か?

アッシュは駆け出したあと、いったいどうしたかったんだろうかと考える。空港にいって、英二に会って、一緒に日本にいくつもりだった?
もちろんそういう解釈もある。実際問題パスポートもってるのかとか、そんなことは邪推である。
ただ個人的には、アッシュは英二にひとめ会えさえすればもう嬉しくて、それ以上のこと、たとえば一緒に日本に行くとか、そこまでのつもりはなかったんじゃないかとも思える。彼はきっとまだ欲張りになれていなかった。英二の手紙によって、自分が英二を大切に思うように英二も自分のことを思ってくれているーーーそれを知って、もう充分に心は満たされたのかもしれない。

そして同時に、自分には平和を得る資格がないという「後戻りできない」という感覚は、結局さいごまで失われていなかったんじゃないか。
英二の手紙をもってしても、彼の「後戻りできない」という孤独までを救うことはできなかった。それはなにも英二のせいではまったくなくて、やっぱり彼は人をたくさん殺しすぎてしまったから。そうしないと自分が殺されるような状況だったとはいえ、あまりにも業が深い。
(そこには吉田先生の「人殺しを主人公として描くモットー」みたいなものもあったかもしれない。完全な想像だけれど、あくまでフィクションとしてわりきって描くとはいえ、アッシュは罪を償わないといけない。作者として、償わせないといけない。そんな気持ちを想像してみる)

読者からしたら、あのまま病院に向かってくれていれば……と思うけど、「どう死ぬか」を考えつづけた彼が「死ぬなら今」と選んだことを受け入れないといけない。そう、彼は死に場所を選ぶことができたんだ。ギャング抗争のさなかであっけなく死んでいく人間がたくさんいる世界で、彼は自分で、「どこで」「いつ」「どうやって」死ぬかを選べた。それは「どう死ぬか」を考え続けたアッシュにとって、最高だったんじゃないか。


自分にとっての「神の家」である図書館で、
英二の愛につつまれて死ぬことが、
彼にとっては幸福だった。ただそれだけ。


彼はどんな夢をみたのだろう。
もしかしたら、小説のハリーのように、飛行機にのってる夢だったかもしれない。


結局のところ、『キリマンジャロの雪』を通してアッシュ・リンクスという人間を見てみることで初めて、BANANA FISHという作品が主人公目線では限りなくハッピーエンドだったのだと、ようやく認めることができた気がした。
キリマンジャロの映画版のように、アニメ版でむりやりな改変がされなかったことにも感謝している。

ただそれでも、彼を支え続けてきた英二、そして彼を応援し続けた読者からしたら、なんと苦しい結末なんだろうと、こればかりはずっと思う。

読者のひとりとして、
アッシュとの気持ちの温度差が、
今はただただ悲しい。




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