小麦畑が育んでくれるもの。
わが家の目の前にある畑の小麦たちが無事、収穫を迎えた。「一緒にやりたい」と手を挙げてくれた友人たちと手刈りでの収穫に臨んだのは、6月始めのこと。
「はじめまして」の友人同士が出会う機会になっていたり、よく顔を合わせる人でも、いつもと違う時間をともにすることで、改めて知り合う機会になっていたり。小麦を中心にいろいろな関係が繋がったり、広がったり、深まったりしていくのを感じた時間だった。
この地で小麦を栽培しているのは、わたしのパートナーであるごろちゃん。ふだんは、パンやチーズ、ワインや調味料などを置いているお店でパンを焼いている。研究者気質な彼から聞くパン製造の話はとても奥が深く、「そうか、パンは生き物なんだよね」ということを思い出させてくれる。
過去にも何度か職場の仲間と小麦栽培に取り組んできた彼だけど、家の目の前の畑で、基本的には自力で(ときに、周囲の協力やサポートを得ながら)、試行錯誤しての栽培は今年で2回目。
そしてわたしもまた、彼が育てた小麦の収穫に立ち会わせてもらうのは2回目だった。とはいえ、昨年と違うのはわたし自身もこの地に暮らし始めたということ。
土作りから始まり、播種、麦踏み、畝立て、、、と小麦栽培の一連の過程を、日々リアルに変化していく畑の姿を間近で感じながら辿っていくという、なんとも贅沢で貴重な経験をさせてもらった。
とにかく小麦の様子が気になって仕方ないの日々だったな、と思う。
いつの間にか、出勤時、帰宅時、毎日小麦畑の様子を見るのがあたりまえになっていて。日々の成長はかすかなものでも、ずっと見続けていると先週よりも、先月よりも、成長してしていく様子が本当によくわかる。ちょっとした変化に驚いたり、喜んだり、時に風に吹かれて倒れた姿を見て不安になったり。
正直「わざわざ」見に行かないといけない場所にある畑ならば、ここまで意識を向けていなかったと思う。目の前の畑を借していただいていること、そこでごろちゃんが小麦を育てていること、いろんな恩恵を受けて「成長を見守るたのしさ」を味わわせてもらっている。本当にありがたい。
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もう一つ、思いがけずうれしかったことがある。
同じ集落に住むご近所さんが「小麦」を通じて、たくさん声をかけてくれたことだ。「小麦よう育っとんな」「いつ収穫するん?」と、会うたびにいろんな人が小麦のことを話題に挙げてくれて、「見てくれているんだな」「気にかけてくれているんだな」と何度も感じた記憶がある。
普段から、会えば「こんにちは」と交わし合ったり、少し立ち話をすることもある。けれど、平日の日中は仕事で家を離れているし、帰りがすっかり遅い時間になることもままあるので、その機会はそう多くはない。
そのうえ、わたしは移り住んできた身。この土地で生まれ育っていればお祭りをはじめ地域の行事や、ご近所付き合いの中でたくさんのことを共有していたかもしれないけれど、そんな風に積み重ねてきた時間や記憶は全くと言っていいほどない。
そんな中で、同じ集落に暮らす方々と、同じ風景を見て、言葉を交わしあえることは本当にうれしかった。一つ、はっきりとこの土地に暮らす方々と共有できるものができたような気がする。
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収穫からもうすぐ1ヶ月が経つ。
小麦のない風景に、どこか物足りなさを感じるようになってしまった。というより、あの日に照らされ輝く小麦畑の景色が脳裏に焼き付いて離れない。また一年季節を巡った先に広がる集落の風景はどんな風になるだろう。その時、どんなことを感じているだろう。
新鮮な気持ちも、気づきも、積み重ねていく中で得られることも、全部ちゃんと味わってここでの暮らしを重ねていきたいな。