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Urban Innovation JAPANのリーダーが語る、街づくりの哲学とビジョン

『街』の構造は複雑だ。住む人、訪れる人、働く人、そしてそれを支援する行政――多くのステークホルダーが重なり合い、共創し合う。その裏側で、『伴走者』という立場で、街のシステム構築に関わっている集団がある。
Urban Innovation JAPAN(アーバン イノベーション ジャパン)――。
自治体の課題と、スタートアップ・民間企業とマッチングするオープンイノベーションプラットフォームだ。そのプロジェクトは神戸で生まれ、現在全国各地、延べ自治体との取り組みを行っている。
そのプロジェクトの代表理事は、元アクセンチュアの社員であり、そして元神戸市役所職員で様々な取り組みの発起人でもあった、吉永隆之だ。
今回、私は企業パートナーとして、彼にインタビューさせてもらうことになった。

左:Urban Innovation JAPAN リーダー 吉永隆之
(NPO法人コミュニティリンク/一般社団法人Urban Innovation Japan代表理事)
右:Stick Out.c 澤田千佳(企業パートナー)

◆「給料を半分にしてでもチャレンジしたかった」震災で芽生えた想い。 

―ご経歴を教えてください。

もともとは、10年ほど東京のIT企業にいました。いわゆるBtoBの大企業で、細分化されたプロジェクトのマネジメントをしていたんですね。そのときに3.11の震災があって、自分も世の中のために何かしたいって気持ちが芽生えました。でも、具体的に何ができるかっていうと正直わからなくて。そこで、転職してみたり、職場以外の繋がりを作ってみたりと、自分で活動をしているうちに、福島の浪江町に行く機会を頂けて、そこでCode for Japan(コードフォージャパン)の関さんに出会いました。

―それはどのような内容のプロジェクトだったのでしょうか?

2014年ごろの福島は、震災が起きた直後の混乱期を経て、これから復興期になっていくちょうど間くらいでした。人々が被災地に戻れるようにと、ソフト面としてコミュニティなどを再生しようと考えていたタイミングです。そこで復興庁が『きずな再生事業』として、各自治体に財政支援をおこない、デジタルフォトフレームやタブレットを使ってソフト面を盛り上げようとしていました。「懐かしい写真を自宅で見よう!」というような意図です。でも、周りの自治体ではあまり浸透していない状況をみていました。で、浪江町も一歩遅れてソフト面の復旧をしようと思ったのですが、周りの自治体と同じことをしても同じ壁にぶつかるのは目に見えていたから、他とは違ったプロジェクトにしようと考えたようです。

―なるほど、そこでCode for Japan(コードフォージャパン)の関さんに白羽の矢が立ったんですね。

はい、Code for JapanはCode for Americaを参考にしていて、例えばアメリカのテック系大企業に所属した人たちを1年間、自治体に派遣して課題を解決しなさい、というフェローシップ制度があり、それを浪江町でやろうということになりました。やはりちゃんとプロジェクトに専門人材が入らないと、自治体の人だけだと限界がある。専門人材と共同でプロジェクトを回して、より精度の高いものをつくっていこうという意図です。もともと復興庁では専門人材を派遣する制度があったので、自分は、復興庁預かりで、浪江町に派遣されるという形でプロジェクトに参加しました。

―その時にアクセンチュアを辞める選択をされたのですか?

はい、関さんにも「本当に大丈夫か?!」と聞かれました(笑) 実際にお給料は半分になりましたし、周りからしたら結構なチャレンジに見えていたようです。でも、自分としては全く強気で、むしろ、「俺がやらねばだれがやる」という気持ちでした。でも行ってからめちゃくちゃ苦労するんですけど(笑)

―その苦労話を聞いてもいいですか?

単純に僕の経験不足ですね。これまではBtoBの大企業で、いわゆる設計書を書いて、同じ言語で、話が通じ合う集団の中で、ある程度言われた通りに進めていればで評価してもらえていた世界だったんですね。でも今後は、様々な立場のステークホルダーの間に立って、調整して、結果として街が復興しないと意味がない、いわゆる『社会的インパクト』を残すことが評価軸になっていく世界に飛び込んだわけで。言われたものを作るではなく、市民が、本当は何を求めているのかを真剣に考えてみる。何度も何度も失敗しながら、現場の温度感を肌で感じながら、一歩ずつ前に進んできた、という感じです。

―なるほど、同じIT専門といってもまったく違う世界ですね。当時の支えはありましたか?

やはり関さんのチームですね。Code for Japanのメンバーには多様なスキルの人たちがいて自分が足りてないプロデュースやデザインの経験値をフォローしてくれました。BtoCの業界が未経験の僕としては、とてもありがたい体制でした。

手とり足とり教えるような体制だったのですか?

いや、そこのバランスが絶妙で。私にもある程度チャレンジはさせてくれつつ、適宜サポートしてくれるみたいな距離感でした。この体制が、今のUrban Innovation JAPANの大事にしている『伴走者』としての原型と言えます。すでに何かしらの経験があったとしても、業種が違えば最初は戸惑う。その際に、適切なサポートをしてあげて、メンバーとして迎え入れて、最適なプロジェクトにつくりあげていく。何かやりたい人が、やれる状態まで伴走してあげるシステムのすばらしさを、関さんたちから学びました。

―なるほど、貴重な体験だったのですね。ちなみに、今あらためて振り返ってみて、関さんチームの特異なところはどこでしょうか?

一番勉強になったのは、町民への向き合い方と、取り組む姿勢です。いわゆるペルソナを描いて・・・みたいなことではなく、もっと泥臭く、町民から直接声を聞いたり、その言葉の奥にある本質的なことを知るために生活に入り込んだり・・・。めちゃくちゃ勉強になりました。あと印象的だったのは、視座の高さと低さのバランスですね。例えば、目の前にいらっしゃる各個人の意見は確かに大事なんだけど、そもそも町にとって本当に大事なことは何か、今回のプロジェクトの本質的な課題やゴールは何かというメタ的な視座と、聞くべき現場の声のバランス感。そこの判断力と本質を見抜く力は、関さんチームの特異さだと、今あらためて思います。

◆神戸市役所への転職。産業を支援したい想い。

―その後、神戸市役所に転職されたのですよね。きっかけはありましたか?

浪江町では、ITサービスを用いて、町民の絆を深め、コミュニティを再生するってことをやっていたのですが、ソフトを充実させるだけでは、町に人は戻ってこないことに気づきました。もちろんソフトは大事なのですが、気持ちの面だけ回復しても、仕事がないと生活ができないし、病院や学校などがないと子育てができない。そういう物理的な問題の解決は当然必須です。その現実がある中で、じゃあ自分に何ができるかって考えたら、『産業を作る過程を支援する』ことかもしれないと。そんなことをぼんやり思っていた時に、たまたま関さんが今度は神戸市のアドバイザーになられて。そのプロジェクトがスタートアップや起業家育成の事業で、そこの現場マネージャーとしてお声がけいただきました。

―その神戸市在籍中に立ち上げたUrban Innovation KOBEが、Urban Innovation JAPANの前進ですよね?

そうです。私のいたチームで、自治体職員がスタートアップと一緒になってサービスの実証実験を行うUrban Innovation KOBEを立ち上げました。スタートアップに事業を作るきっかけや、神戸市と関係性を作ってもらうきっかけを作る目的でしたが、これは自治体のITシステムの調達方法を変える一つのアプローチだと感じました。
浪江町にいたときからITシステムの調達方法には課題を感じていました。自治体がITシステムを導入したいとき、仕様書を作成して、コンペを実施して一番妥当な事業者さんを選ぶ方法なのですが、作りたいシステムを言語化するのはIT企業の人間でも難しいので、自治体ではなおさら。
予算も限られることもあいまって、中途半端なシステムができあがってしまうことが多発しているように見えました。それをこの手法を使えば、少しでも解決できるのではないかと思いました。

―なるほど、原型ですね。神戸市でのお仕事が今のUrban Innovation JAPANの原型になっているのだと思うのですが、その神戸市を辞めてまで今の形にこだわったのはどうしてでしょうか?

Urban Innovation KOBEのシステムを踏襲して、全国各地の自治体がスタートアップと自治体職員とで共同開発をおこなう事業をはじめました。神戸市だけでなく他の地域でも需要があることがわかり、もともとUrban Innovation KOBEを運営していたNPO法人コミュニティリンクと一緒に事業を広げる形で、ジョインした流れです。

―客観的にみて、この転職もまたチャレンジングな判断に思えるのですが、吉永さんとしてはどのようなお気持ちでしたか?

神戸市役所内でもやれることはまだまだあったかもしれないし、新たなポストのご提案もしていただいていたのですが、お仕事で起業家たちに接することで『チャレンジする』という精神に感化されたところはあります。
もともと根っこで思っていた「街のために何かやりたいけど、やり方がわからない」という人たちを支援したいという気持ちに賭けてみたくなり、現在の形を選びました。浪江町のプロジェクトで、関さんチームが自分にしてくれたような経験を、今度は支援する側にまわれたら、と。
だから、僕は、『個々の力を最大限に活かすプロジェクトマネジメントをすること』と『想いを持ったメンバーと仕事をすること』を、仕事の軸においています。

◆どうやったらチームがうまくまわるか。個々の力を最大限に生かす。

―プロジェクトマネジメントをする上で、大切にしていることはありますか?

まずは、プロジェクトに関わる人すべての人が、それぞれの『役割』として、対等でいられる関係性を築くこと。例えば、発注者側と受託側で完全に立場がわけられてしまうプロジェクトだと、本当の意味での相乗効果は生まれないと思っていて。もちろん誰かだけが損するのは論外ですが、ある側面だけが良い思いをするのもよくない。どこかに変な偏りを生まないように、心がけています。

―素敵なチーム論ですね。それを意識されるようになったきっかけはありますか?

もともと東京にいた時は管理型の、大きな組織の中で仕事をしていました。同じ文化の人が、決められた工数の中で、「いつまでにこれをする」といったスケジュールで動いて、細分化されたものをそれぞれが分担して作りあげていく・・・巨大建築を作るようなお仕事でした。
もちろんそれも大事なことなのですが、その後に携わった浪江町のプロジェクトは真逆で、異なるバックグラウンドの人たちが、大きな目標に向かって、みんなで共通言語をすり合わせ、お互いのプロ意識をぶつけながら、当初の想定とは多少違っても、「使う人に喜ばれる最適なものができたね」と喜び合うものでした。
これからも長くお仕事をやっていくと考えた時、どっちが楽しいかって考えたら、後者に魅力を感じたんですね。それに、日々イレギュラーが起きるから、対応力が高まって、人間としての器もでかくなる。「なんとかなるさ」と言いながら、みんなで協力する。そういう面白さの根底には、柔軟さがあって、それは関わる人みんなが対等な立場でいれる関係性づくりが必須なんだなって気付きました。

―なるほど、良い関係性づくりは、プロジェクトマネージャーの手腕なのですね。ただ、そういうプロマネの方はとても希少な気がします。

はい、本当に少ないと思います。でもだからこそ、育てないといけないなと。例えば、僕が浪江町で体験したような、大企業にいた人間が町の再生にチャレンジするようなことがもっと当たり前になれば、さまざまな業種で多才なプロマネが増えるのではないかなと思っています。
大企業でもベンチャーでも、社会の役に立ちたいと思っている人が、社会的なインパクトの大きいプロジェクトに関わってもらいやすい仕組みをつくりたい、それが僕の根底にある想いです。

―Urban Innovation JAPANのビジョンのひとつですかね?

そうですね。今は、自治体の課題の中身に適正さえあれば、入札資格などがなくても応募できる仕組みづくりと、プロジェクト組成されてからの伴走を行っていますが、今後は興味を持って関わってくれる人そのものを増やしていくこともしたいと思っています。それは自治体側もですね。

―今後のUrban Innovation JAPANについてお伺いしたいのですが、吉永さんがおっしゃるように、人に寄り添ったり、丁寧な伴走を心がけると、事業の発展や成長のスピードが遅くなる傾向にあると思っています。クオリティの担保と成長スピード、このふたつは、どのようなバランス感で進んでいかれる予定でしょうか?

正直、すごく悩んでいます(笑)
事業として大きくしていったり、制度や仕組みを変えるよう働きかけていくことでしか解決できない課題もある。でも、それをしすぎるとひとりひとりの変化がおろそかになる。とても悩ましいです。
ただ、これまでUrban Innovation JAPANに参加してくれた方々が、「参加できてよかったです」と言ってくださる一方で、まだまだ自分たちが期待しているような、参加したことで得られた効能や体験価値を与えられてない反省もあります。
そういう意味では、「参加できてよかった」の意味合いをもっともっと深めていく、もしくは広げていくことをしたいと思っています。

◆正しいことを正しくやるチーム、Urban Innovation JAPAN


―Urban Innovation JAPANの運営チームにおける哲学性やブランド性についてお伺いしたいのですが、こだわりはありますか?

チームのみんなを見ていて思うのは、『正しいことを正しくやりたい』人たちが集まっているなぁということです。
例えば、大企業にいて管理する側にいると、「見積書の項数がこれしかないから、ここまでの仕事しかやってはいけない」というルールに従うことが多かったんです。
それは会社としてとても大事なことではあるけれど、まちづくりに関わる仕事の多くは、当初の予定通りに進むことがほとんどないです。だから、自分たちが率先して、“本当に正しいこと”を考えて行動しないと、周りはついてきてくれない。事業なので大赤字になったらだめですが、その時必要なことは想定外だとしてもやるようにしています。

―なるほど、頭が下がりますね。でも、そういうことが出来るプロジェクトマネージャーって、世間的にも、かなり稀有に感じます。

はい、そうですね。メンバーにはとても感謝しています。お給料がすごくいいわけでもないのに、難易度がかなり高いことをお願いしている自覚もあります。いわゆる「自分が自分が」の人は本当にいなくて、見事に『伴走者』タイプが集まってくれているなと。

―精神性が高くないと誰かの伴走はできないのかもしれませんね。みなさん、承認欲求がなさそうです(笑)

そうですね、みんな自分たちの軸や信念がある人たちなので、あまり僕が褒めても響かないかもしれません(笑)

◆吉永の新たなる挑戦とは

―最後に、吉永さん個人として、やってみたいことはありますか?

僕たちは、ひとりひとりを動かすことで街や地域を変えていこうと取り組んでいるのですが、それで実現できることもあれば、それだけだと厳しいこともあります。そのため、自治体の制度設計のお手伝いを通じて、構造から変えることにもチャレンジしたいです。例えば、公務員の評価軸とか、人事制度とかですね。そういった働く上での環境改善が、ひとりひとりの挑戦につながっていくと思っています。


――インタビューを終えて。
今回、彼の稀有な経験からみえてきた『街づくり』の根本的な課題を紐解き、なぜUrban Innovation JAPANが『伴走者』をしているのか、その根幹にある想いを聞いた。IT企業、公務員、そしてNPO法人。3つの立場を経験した吉永氏だからこそ、今のUrban Innovation JAPANが出来たのだと思う。もちろん、プロジェクトをかたちづくるのは彼だけではない。今後、彼のもとに集まるメンバーや参加企業にもインタビューをし、より深くUrban Innovation JAPANの哲学とビジョンに触れていく。


プロフィール

吉永隆之 Urban Innovation JAPAN リーダー 
(NPO法人コミュニティリンク Urban Innovation JAPAN ディレクター/一般社団法人Urban Innovation Japan代表理事)
1980年千葉生まれ、神奈川育ち、神戸在住。大学卒業後、IT企業2社で計10年間、企業の業務システム開発に携わる。2014年、Code for Japanのフェローシップ第1号として福島県の浪江町役場に勤務し、町民コミュニティの再生を目指したアプリ開発に従事。2016年、神戸市でスタートアップ支援を行うイノベーション専門官として入庁。UIJの前身、Urban Innovation KOBEに初期から携わる。現在は神戸市を離れUIJの全国展開を進めている。

澤田千佳 Stick Out.c
化粧品や女性向け商材のプロモーションプランナーを経て、ブランディングPRのプロデュース兼ディレクターに転身。現在フリーで企業ブランディングと、産業×町おこしの企画プロデュースを行っている。


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