n回目の試行

中学生のころから「今この場であるかもしれない悲劇」をよく想像していた。
道を歩いているときに事故にあったら。
家に強盗が入ってきたら。
乗ってる電車や飛行機が止まったり落ちたりしたら。
そういう事が起きたら、私はどうなるのだろうと。

起きないとは言えないが起きるとは思えないようなことを延々考えるのは時間の浪費だったかもしれない。
妄想の中で簡単に潰える命のことを思うと少々冒涜的でリスペクトに欠ける行為だったかもしれない。
それでも私はよく頭の中でトラブルの様子を思い描いていた。

今になってそんなことを思い返す理由はなんだろう。
……と思ったが、明快だった。さっきやったからだ。
家に強盗が入ってきたら、について。
忙殺されている間はそんなことに頭を使う気にもなれないから考えなかったが、この夏休みの暇さ加減で復活したらしかった。

私はそれで母親の愛を試したかったのだろうな、と推察する。
分かりやすく示されないそれがそこにあることを体感したかったのだろう。
もう何度目かわからないけれど、そのためだけに私は脳内で母親を何度も殺めている。
期待と現実がすれ違うたびに死体の山に新人がやってくる。

これってきっと、良くないことをしている気がするわ。
いつの間にか始めてしまったことだから、やめるにやめられないけれど。

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