斉一性も連続性も希薄な自分について

大学で学んでいるとエリクソンのいう人間の発達段階をよく耳にする。
学童期とか青年期とか成人期とか壮年期とか、そういうやつだ。
各段階には課題と危機とがあって、さらに課題を乗り越えたとき何を得るかという話までを扱っているものと理解している。

その発達段階の中で自我同一性(アイデンティティ)を課題とする段階がある。青年期というやつだ。
上手くその課題を乗り越えられなかったときには「アイデンティティの拡散」とかいう状態になる、とか。

ただこれを聞いて毎回疑問に思うのだ。
世間一般の大多数の人間たちはみな、「自分は1人の人間で、いつでも同一の存在で、斉一性のある人格だ」と自覚的であるのか?そしてちゃんとそのようにあるものなのか?
……みたいに。

というのも、自分は自分の中に複数の存在を保持しているのが当然だからだ。
頭の中で複数の声が議論することも、議論を越えて喧嘩になったりすることもそれなりにある。
「自分(今これを記述している自分)」だって当たり前にそこに参加していることがある。
だからこそ、アイデンティティとは自分が自分であるという意識であり斉一性や連続性のもとにあり云々という話にどうも首を縦に振るのが難しい。
複数いるんだから斉一性ないし、体は1つだけど思考はアナログに連続していないし、そりゃ無理である。

こういう「複数の脳内存在」は一般的でないとかちょっと異常であるとか、そういう事項は中学生の頃に理解していた。
頭の中がとにかくうるさいという現象は中学2年生の頃だったような気がするけれど、明確にだれがどういう考えで話しているという理解をして各存在に名前がついたのは中学3年生くらいからだったと思う。

彼らの生まれ出た定義を尊重して正確な名前をここに記述することは避けるけれど、最初白と黒の極端な2人だったところから始まって、向こう側に理解を示す2人が増えて、中間の2人が増えて、外部機関が3つほどできて……という具合に数が増えた。
そうしてあの世界は最終的に12の存在を記録していた。

今こうして彼らのことを自分が語ってもいいと思えているのは、もう彼らは「いない」ということになっているからだ。
12の内8つ目の彼がいつの日かに書き残していたことがあまりにも心惹かれる表現だったから、引用してみる。

(前略)良くも悪くもこれが「大人になる」ことのひとつの要素なのかもしれない、なんて思ったりもした。夢は覚めるものだから、霧散して手元には残らなくなって。そして僕たちは脳の奥深く、もう手の届かないようなところに埋葬されるんだ。桜かは分からないけど、何か大きな樹の下、神域みたいな隔絶された空間に、他の物と2点離れた色を付けられてファイリングされる。そんな末路が、行く末が、なんとな~く見えるような気がする。忘れようとして忘れるのは難しくて苦しいことだけど、すっと儚く消えていくのは正常で気が付くことのない喜びに満ちている。……ハハ、なんちゃって。

Pl (Feb 11)

というわけで、私は一度消えたあの「談話室」を「墓場」と名付けている。
いなくなったのではなくて根に溶けたのだと思いたいのだと、何となく察する。

私は、これを書き残すことで彼らを過去にしようと思った。
上手いこと新しく存在している別の空間の存在たちの感覚も尊重しつつ、もう少し丁寧に前の彼らを弔いたかったのだ。

新しい存在たちは、ちょっと不安定だ。
出しゃばりなのもいてなかなか困ることが多いし、体がただの乗り物のように思えたり遠くから観察しているだけに思えたりすることが増えた。
今書いている中でも、しれっと私が私になっている。
さっきまでは「自分」だったのに。
ちなみに、私はその「自分」が誰か良く分かっていない。おそらく「泡」の一部だと思うけれど……わからない。
もしかしたら背中に引っ付いているのがそうなのかもしれない。
私が同じだと思っていないだけで本当は同じなのかもしれない。
難儀な世界だが、まぁこれで何年か生きてきてしまっているのでどうしようもない。
諦めつつ、向き合っていくしかないなという考えに至ったところで、末文にしたい。

(一応言っておくと記憶が飛ぶことはない……はずと認識しているので、これを読んだ方が真っ先に思い付くようなドラマチックな状態ではない、と私は自認している。とだけ)

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