隣の存在、どこかの存在、あるいは公共について

Twitterは便所の落書きあるいは独り言なのて無視すべきという言説の存在。

これについて、私は正直理解ができないでいる。
正確に言うと、同意ができないでいる。


「公共」とはどういうことだろうと考えてみて欲しい。
最低限、意志さえあれば誰でもアクセスできる場所は公共の場所であると思う。公園も学校もスーパーもそこがそうであること自体に異議を唱える人は私の想像の範囲ではいない。ただアクセスが完全に自由ではなくて、無意識的な、あるいは制度的な面からしてその実制限がかかっていることがあるとする人はいるかも知れない。つまり“誰でも”という言葉に反応する人は、まぁ一定数いると予測する。

なるほど確かに、学校で教育を受けることは年齢、ともすれば“性別”までも限られてくる。高校生まではその事実が根強い。ハタチの高校生と聞いたら首を傾げつつ「大学生じゃなくて?」という人が大半だと、勝手ながら想像している。でも実際に私はハタチの高校生に会ったことがあるし、レアではあるかもしれないけどないわけじゃないことを知っている。


まぁとりあえず、私が言いたいことはこうだ。

よっぽど人を厳選して作っている鍵アカウント以外は、そこは公共の場だ。
SNSの大部分は公共の場だ。
だからそこで発言していることは誰をも傷つけないようにするべきだ。
最低限、そう心がけるべきだ。

そう、私は思うのである。


なぜこんな事を言っているのかはもうお察しいただきたい。
近日は心が抉られるような出来事が山積していて辛いのだ。
それはSNSの内外であったので、ひとえに括れることではないのだが。

ただ快く過ごせるようになったらいいのだがなぁ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?