‘HE MADE THE WORLD BIGGER’: INSIDE JOHN ZORN’S JAZZ-METAL MULTIVERSE (和訳Part 2)
https://www.rollingstone.com/music/music-features/john-zorn-jazz-metal-interview-naked-city-1015329/
Part2 「隠し通路」:『Painkiller』、『Bladerunner』、そして『Beyond』
ネイキッド・シティでジャズ志向のプレイヤーにハードコアを紹介するかたわら、ゾーンは一連の画期的な即興グループで逆のアプローチも実験していた。このもう一方のルートでゾーンの世界に入った最初の一人がドラマーのテッド・エプスタインだ。
1986年の秋、骨太で複雑な構造をもつハードコアと洞窟のようなダブレゲエを交互に演奏するインストゥルメンタル・トリオ、ブラインド・イディオット・ゴッドのバンド仲間とともにセントルイスからニューヨークに移ったとき、エプスタインはジョン・ゾーンの名を聞いたこともなかった。しかし、それから間もなくしてCBGBでのライブがゾーンの気に入って、海外での共演を申し込まれることとなる。
「ジョン・ゾーンのことを初めて聞いてから、イタリアのステージで一緒に演奏するまで、たぶん2週間くらいだった」とエプスタインは振り返る。
ゾーンはブラインド・イディオット・ゴッドのメンバー全員と協力し、ネイキッド・シティ・スタイルのオリジナル曲『Purged Specimen』と、後にネイキッド・シティ自体が取り組むことになるいくつかの曲の初期バージョンでチームを組んだ。しかしすぐに、エプスタインに他の機会にも声をかけるようになり、アイをボーカルに迎えたザ・ストゥージズ『T.V.Eye』の爆発的なカバーに彼を起用したり、『Spy vs Spy』のライブでバロンのサブを頼んだことさえあった。
「彼は私をクレイジーな状況に放り込んだときに何が起こるかを本当に楽しんでいるように見えました」とエプスタインは言う。 「私はオーネット・コールマンの曲を知りませんでした。行く途中にウォークマンか何かで何か聴こうとしたかもしれないけど、いや、その音楽を知りませんでした。 …それはちょっとした出来事で、正直言って本当に素晴らしかったです。」
その後すぐに、ゾーンとエプスタインはエリオット・シャープと新しいグループを結成した。スランと名乗ったこのトリオ―かつてゾーンによって「世界初の全員ユダヤ人のヘヴィメタルバンド」と呼ばれていた―は1990年にニューヨークで演奏し、ヨーロッパと日本をツアーした。彼らのサウンドは、エプスタインのパンチの効いたメタリックなスタイルを全面的に取り入れた自由形式のノイズ・ジャズを積み重ねたものだった。
ゾーンと仕事をするまで即興演奏をしたことがなかったドラマーにとって、その世界の演プレイヤーたちと渡り合うことは、勉強になり、刺激になった。
「ゾーンは、自分ができるとは思ってもいなかったことができると気づかせてくれました」「あるいは、自分には到底無理だと思っていた状況にも音楽的に適応できると気づかせてくれました。例えば、正直に言うと、自分が持っていた音楽的な直感やテクニックは、たとえそれがロックやファンク、ハードコア、パンクと思っていたものであったとしても、それらは実際には特定のジャンルに限定されたものではなくて、そしてジャズというものが、その傘の下で多くのことができる大きなジャンルであるということに気づいたんだ。そこには目に見えないつながりがある。」
「さまざまなジャンルの音楽の間には、隠し通路がある」「特に、本当に素晴らしいミュージシャンと一緒に仕事をする機会に恵まれると、さまざまな異なる軸に沿ってどのように旅をすることができるのかを知り、何かへと続く道を見出すことができる。」
当時、ゾーンはこれらの通路を絶えず行き来し、インダストリアル・メタルの変態バンドOLDのスタジオにゲスト出演したり、ローリンズ・バンドのリズム隊を務めるベーシストのアンドリュー・ワイスとドラマーのシム・ケインとライブで演奏していた。そして次なるジャンルを超えた即興演奏の持続的な冒険に向けて、ゾーンはロックのアンダーグラウンドをさらに深く掘り下げ、すでに相当のインスピレーションを得ていたプレイヤーを起用した。(バロンがブラストビートのやり方に慣れるためにも演奏した)ナパーム・デスのドラマーミック・ハリスだ。
ゾーンはイースト・ヴィレッジのレコード店の店員に勧められて以来、数年前からナパーム・デスのファンだった。(『お気に入りのハードコアのレコード5枚、お前のターンテーブルがノンストップで回り続けるやつを取り出しくれ』と言ったんだ」「そして彼が取り出したうちの1枚がナパームだった。」)アメリカのハードコアの過激派に影響を受けたイギリスのバンドは、スピードと攻撃性を前例のないレベルまで高め、いずれはバンドの要ともなる1987年の『Scum』や1988年の『From Enslavement to Obliteration』といった作品、そのなかようやく1秒あるかないかという有名な曲も含まれるほどに、曲を短く、白熱した激昂にまで圧縮していた。ゾーンはナパーム・デスのレーベルであり、イギリスのグラインドコア界の草分け的存在であるEaracheと連絡を取り、1989年の夏、東京公演のバックステージでナパーム・デスに出会った。ミック・ハリスはEaracheの従業員マーティン・ネスビットから紹介された『Spy vs Spy』にはまって、すでにゾーンのファンであったこともあり、二人はコラボレーションの可能性について話し合った。
そこから彼らは連絡を取り合うようになった。「ナパームのツアー中、よくジョン・ゾーンにポストカードを送っていた」とハリスは振り返る。「ドイツにいるときでも、どこにいるときでも、いつもジョン・ゾーンにハガキを送っていた。(BBCの有名なDJだった)ジョン・ピールにもカードを送ったし、父と母にもカードを送って、そのときはまだガールフレンドだった妻のヘレンにもカードを送った。だから、いつもカードは4枚送っていたんだ。」
ハリスは1991年の初めにニューヨークを訪れた。彼はゾーンと会って食事をしたりレコードを買ったりしながら、2人は一緒に仕事をすることについて会話を続けた。ハリスの渡米前に具体的な計画を立てていたわけではなかったが、その場でゾーンがレコーディングを提案した。ハリスは、超偏屈なベーシスト兼プロデューサーのビル・ラズウェルによって80年代半ばに結成された荒く懲罰的なほど大音量の即興演奏グループ、ラスト・イグジットのファンであることを話した。ゾーンとラズウェルは、同じダウンタウンのアヴァンギャルド界隈を何年も駆け回ってきた友人であり、半合同で行った海外旅行中に、見つけられる限り最もワイルドな日本のハードコア・レコードに共通の関心を持ったことで意気投合した。そこでゾーンはその日の夜にラズウェルに電話をかけ、ブルックリンのグリーンポイントにあるこのベーシストが所有するスタジオにトリオのセッションを予約した。
レコーディング当日、世界的に有名な2人の即興演奏家と完全な即興アルバムを作るためゾーンとタクシーでスタジオに向かうのは、人生初の即興に臨むハリスだった。
「目に浮かぶだろう?俺はまだガキだった。あんな状況は初めてだった。もちろんジョンには会っていた、でもビルははじめましてだ。スタジオであんな即興をしたこともなかった。俺は二流の独学パンクドラマーで、ナパームでやってたことに自信はあったけど、それ以外のことは何もわからない。」
スタジオに到着したハリスは、ラズウェルのマスターテープに驚嘆した。それはミック・ジャガーからモーターヘッドまで、あらゆるアーティストの制作に携わってきた証拠だった。彼がドラムキットを選ぶと、バンドは演奏に取りかかった。
「ジョンは『よし、ミック、ビル』とか『ビル、ミック』とか言って、それから『よし、ヘッドフォンをつけて、テープ回して、始めよう』って感じたった。『で、何を?!』」ハリスは大笑いしながら思い出して、「『心配するな、問題ない。ただキットの後ろでいつも通りやればいい』ってジョンは言うんだ。それだけだ。三時間で俺たちはこのレコードを仕上げた。」
そのレコードは地下音楽の象徴となった。1991年後半にEaracheからとしてリリースされた『Guts of a Virgin』は―Painkillerの名義でリリースされたこのEPはゾーンとハリスの両者が1990年のジューダス・プリーストの同名レコードを参考にしたものではないと認めている―ジャズとロックの極限が有機的に対等に融合した作品であり、ゾーンのアルトサックスがハリスの狂乱した爆音とラズウェルのベースの巨大な響きの上で鳴り響いた。
アルバムのカバーアートは妊婦の解剖図が生々しく描かれた陰惨なものであり、写真がレーベルに送られる途中で税関に押収されたため、警察はEaracheの英国オフィスを捜索した。「インターネットが普及する前の話だ。彼がどこから写真を手に入れたのかは分からない」「とにかく、かなり衝撃的で恐ろしいものだった。その後、私は刑事訴訟で6か月を戦いに費やして、最終的に法廷には持ち込まれなかった。弁護士が、この件で私が刑務所送りにならないよう弁護士が多くの時間を費やしたからだ」とレーベルの創設者ディグビー・ピアソンは語る。
ハリスとゾーン両名から発せられる徹底的な叫び声は、ペインキラーの容赦ない生々しさをさらに高めた。「子供の頃、家族はずっと怒鳴り声を上げていた。それが彼らのやり方だった。」ネイキッド・シティやスランでも時々歌っている過激なボーカルへの親和性について尋ねられたゾーンはそう語る。「彼らにとってそれが他の人とコミュニケーションをとる方法だった。叫ぶことは私にとってとても自然なことで、私の血の中に流れているんだ。」
時折、ゾーンとハリスはステージで、山塚アイを含むゲストのスクリーマーたちのサポートを受けていた。
「ペインキラーは、2本の極度に張り詰めたワイヤーが絡まりあっているようでした」とアイは語る。「ワイヤーは今にも切れてしまいそうなくらいきつく引っ張られているですが、それを指先で弾くと途轍もない音波振動を生み出すんです。ワイヤーが交差する点は重力の影響から逃れられる安全地帯で、そこにはクッキーやティーカップを載せたトレイを置くことだってできる。緊張があまりに極端だから、自動的にリラックスしたゾーンが生まれるんです。そのゾーンに自分の叫び声を入れることができた、すべてゾーンのおかげです。」
ペインキラーは原始的な起源をはるかに超えて進化を遂げていくととなる。バンドは『Execution Ground』等の後のアルバムで―ライブ・エンジニアのオズ・フリッツによって強化され―不吉な長尺のムード・クラフトを探求していった。「ミックはブラストビート、つまりとても短く、速く、非常に激しいパターンからスタートし、次にはダブのような雰囲気のあるやつを、レゲエとはまったく関係なく、とてもミニマルな演奏にダブを組み込んでやっていた」とラズウェルは回想する。
ニューヨークのニッティングファクトリーから日本のクラブ、ヨーロッパのジャズフェスティバルまで、かなりの数のライブをこなした後、90年代の終わり頃にこのトリオのオリジナルメンバーは解散した。ハリスはスコーンなどのプロジェクトでエレクトロニックミュージックのアンダーグラウンドに飛び込み、一方ゾーンとラズウェルは他のドラマーたちとペインキラーを続け、ハリスとは一度2008年のライブで再会している。(ゾーンは現在の編成のナパーム・デスが2012年に発表した曲で電撃的なサックスソロを披露しているが、この曲にハリスは参加していない。)
振り返ってみれば、ペインキラーはジャズと即興の世界の中で意見が分かれながらも最終的には刺激的な力になったとラズウェルは考えている。「ペインキラーは、多くの人と多くのものを結びつけるのに役立ちましたが、例えばフュージョン・ジャズの人たちに必ずしもインスピレーションを与えたとは思わない。」「そういう人たちにとっては非常に混乱を招くもので、不安にさせたり、失望させたりしたと思う。ヨーロッパのどこかのジャズフェスティバルでペインキラーが演奏すると、オープニングアクトはベティ・カーターからスムースジャズみたいなやつまで何でもいいのですが、その音をペインキラーのスタイルでやるとかなりうるさいからね、観客の半分、つまりジャズファンが逃げ出して、残りの半分の観客が前に出てくる。その観客はたいてい子供やジャズ以外の目的で来た人たちだ。そうすることで、その分裂を示すことで、フェスティバルに変化をもたらされ、突如彼らはもっと面白いものをブッキングし始める……一種の新しい基準の確立だ。」
ペインキラーはゾーンにとってCBGB で最初に味わったようなパンク志向の生々しい攻撃性と直接触れ合う機会だった。「あいつは熱狂的で、素晴らしいやつだった」「史上最も独創的なドラマーのひとりだ。信じられないよ。彼は教育を受けたドラマーではなかったかもしれない…しかし、彼は彼自身をやり、それはとても強烈で、彼の存在を1000パ-セント注いでやっていた。決して手を抜くような人ではない。不誠実な音は一音もなかった。」
ハリスにとってこのプロジェクトは、ペインキラーが結成された同じ年に彼が脱退したバンド、ナパーム・デスでの役割を超えて、世界に何かを提供できるという確信だった。「ナパームにはスタイルがあったが、結局それは俺が本当に嫌いなもので、私が離れた理由だった」とハリスは語る。「俺は箱の中に閉じ込められているような気分だった。ただ『ダ・ダ・ダ』って叩くだけで、他には何もない。ジョンとビルと一緒に仕事をする機会を得られたのは幸運だったよ。彼らは扉を開き、可能性を広げ、俺にもそのチャンスを与えてくれたんだからね。」
「ジョンは、俺が自分のドラム演奏にどれほど嫌悪感を抱いているか、何かに囚われていると感じているかを知っていた」「でも彼は言ったんだ。『ミック、君はそれを受け入れないといけない。君には何かがあるんだ』って。俺が『ジョン、俺には何かがある、それは分かってる、でも弓が一本しかないんだ』っていうと、彼は『いや、君にはそれ以上のものがある』って……このときジョンは僕に何かをくれたんだ。それは真の友情で、真の言葉だ。ジョンは言ったよ『ミック、君には炎がある。世の中には技術に秀でた人たちがいる。君は技術がない、ミック、それは君のものではないんだ。』『でも、こうした技術に秀でた人たちには炎がない。魂がないんだ。』」
ペインキラー以外にも、グラインドコア界におけるゾーン同盟はより広範囲に影響を与えた。Earacheのディグビー・ピアソンは―ペインキラーをリリースする前に、ゾーンのお気に入りであるカーカス・アンド・ジ・アキューズドやナパーム・デスのアルバムをリリースしていた―ハリスとマーティン・ネスビットが作曲家ゾーンに称賛の声を上げ始めたとき、最初は当惑したことを覚えている。
「実際に彼と契約したわけでもなければ、一緒に仕事をしたいと思ったことさえない」とピアソンは笑いながら回想する。「彼はなんとかして潜り込んできたんだ」。しかし同僚の勧めもあって、Earacheはネイキッド・シティの『Torture Garden』のライセンスを取得し、1991年にイギリスでレコードをリリースした。
「私の問題は、少々俗っぽいところでしょう」「それを認めるのは構いません。私には一汁三菜的にハードコア・パンク、スラッシュ、グラインドがあればよくて、それをやるという使命感を持っていました。そして、(ゾーンの)前衛的な傾向やそういったものは私の好みではありませんでした。」
しかし、やがてピアソンはネイキッド シティの突飛な魅力に気が付いた。「ようやく聴いて、理解できました。『OK、これは素晴らしい。40曲が20分ほどの時間の中に収められているのか』という感じでした」と『Torture Garden』について語る。「今聴き返すと、30年前の作品なのにとても現代的です……インスタグラムやVineといったもの、あるいは6秒間の集中力といった概念をほぼすべて先取りしているようでした。」
ピアソンはまた、Earacheと発展途上のグラインドコアシーンに正統性を与えるのに貢献したとゾーンを評価している。
「私が関わっていたバンドやミュージシャンは、文字通り公営住宅出身者たちで、18歳、20歳ととても若く、私と同じようにこの業界で初めてアルバムを作った人たちで―とてもハードコアなパンクで、DIYレーベルの雰囲気がありました」「ゾーンは、影響力のある最初の人でした。すべてにある種の尊敬の念を与えてくれた、それはとてもありがたいことだった……聴くに堪えない音楽でしたから、ナパーム・デスが前衛的だなんて思いもしなかった。ジョン・ゾーンがそこにつながりを見つけ、そこに飛び込みたいと思ったのは素晴らしいことでした。」
ゾーンとEaracheの関係は短く、1991年の『Torture Garden』の再発盤とペインキラーの『Guts of a Virgin』、そして1992年のペインキラーのEPの一枚『Buried Secrets』―イギリスのインダストリアル・メタル界の巨人ゴッドフレッシュのメンバーが出演―のみであった。しかし、このつながりはレーベルに持続的な影響を与えることになる。
「ジョン・ゾーンのおかげでその頃Earacheにやってきて、それ以来ずっと私と歩みを共にしているファンが今やたくさんいます。それは彼がすでに名声を博したアーティストだったからです」「今振り返ってみれば、彼が関わっていた前衛の世界と、私が発展させようとしていた純粋主義的なグラインドコアとの間の完璧な小衝突でした。
ニューヨークに戻ると、ブルータル・トゥルースでその威圧的な咆哮が中心的役割を果たしていたボーカリスト、ケビン・シャープがゾーンの秘密兵器のような存在になっていた。彼はネイキッド・シティのステージに度々登場し(アイとボーカルを分担)、ペインキラーにもゲストとして参加、コブラのボーカルver.にも協力している。
「ジョンは、本質的な教養を備えたミュージシャンで、アメリカのジョン・ピールのような人だった」とシャープは言う。「彼はあらゆる音楽を知っていた。」
シャープがキャプテン・ビーフハートやファンカデリックの啓示的なアルバムに目覚めたのもゾーンの影響によるものだが、それ以上に重要なのは、より広範な音楽美学への道をゾーンが示したことだ。ブルータル・トゥルースの1992年のファーストアルバム『Extreme Conditions Demand Extreme Responses』は強烈だがストレートなグラインドコアのレコードで、イギリスの先達が80年代後半に量産していたものの改良版といったところだった。しかし、1994年のセカンドアルバム『Need to Control』でバンドは見事に解き放たれ、ノイズの間奏、より多彩なテンポ、さらにはゲストによるディジュリドゥ(シャープがゾーンを通じて知り合ったというミュージシャン、アンディ・ハースによって演奏された)など、より実験的で混沌としたサウンドを取り入れた。シャープは、アンディ・ハースとはゾーンを通じて知り合ったと回想している。このときから、バンドは、そしてシャープは他のさまざまなプロジェクトで、その奇抜な旗を誇りを持って掲げることになる。それ以降、バンドは(そして、他のさまざまなプロジェクトに参加するシャープは)フリークの旗を誇らしげに掲げるようになる。
「彼の音楽に対する異常に幅広い趣味のせいで、言うなれば、全員がゲームのレベルを上げざるを得なくなった」とシャープはゾーンについて語る。「最初のレコードを10回以上作り直すことは簡単だった……楽器の音を本当に多様化するよう励ましてくれたし、ビジネスに焦点を合わせるのではなく音楽への愛に従うことを教えてくれた。そして私はそのように人生を切り開いていった、だから、ありがとう、ゾーン。僕に大きな影響を与えてくれたんだ。」
デイヴ・ロンバードもまた、ゾーンとの出会いによって世界が大きく広がるのを実感することになる。80年代、キューバ生まれのロンバードは、スレイヤーのアルバム『Reign in Blood』などでダブルキックによる激しいドラム演奏を多用し、ヘビーメタルのドラミングを再定義した。さらに2枚の名盤をレコーディングした後、彼は1992年にバンドを離れ、新しいプロジェクト、グリップ・インクを結成した。そして1998年、フェイス・ノー・モアの最後のライブでマイク・パットンと出会った。パットンは彼の新しいバンド、ファントマスにロンバードを招き入れると、後間も無くして直感でこのドラマーの友人のジョン・ゾーンに引き合わせた。
「デイヴ・ロンバードって奴と一緒にやってみろってジョンに言ったんだ。」「ファントマで彼と仕事を始めたんだけど、彼はバンドの全員を圧倒していた。すごかったよ。それでジョンに『こいつと一緒にやってみてくれ、殻から出してやるんだ』って言ったんだ。
二人の共演にそれほど時間はかからなかった。ロンバードがゾーンと初めて出会ったのは1998年9月、サンフランシスコのクラブ「スリムズ」で2日間に渡って行われたイベントのときで、その間このドラマーはゾーンと2度共演した。最初はパットンを含むサックス、ドラム、ボーカルの即興トリオ、2度目はミスター・バングルのトレイ・スプルーアンスも加わった7人編成のバンドの一員として、ゾーンのゲーム曲『Xu Feng』を演奏した。
ステージでノイズの弾幕放火を巻き起こした、でもそれは制御され指揮されていたんだ」とロンバードは『Xu Feng』の演奏を回想する。「これらのミュージシャンたちの一員であることは僕にとって啓発的なことだった。とにかく情報量が多かった。僕はスポンジみたいに吸収したよ。全ての瞬間が即興で、その一瞬一瞬が愛おしかったよ。」
「そして、パットンに会う前の経験から、これを素質と呼ぶべきか、才能と呼ぶべきか、何と呼んでも構いはしないけど、誰かが何かリズムやメロディー、パターンを始めたら、僕は彼らが中断したところからそれらを拾い上げて、即興で演奏し続けることができた。だから、そういったパフォーマンスでは聴くことが即興の大きな部分を占める、そしてそれが僕にできたことだったのです。」
ゾーンとロンバードの協力体制は進展し、やがて2人はバンドを結成した。ブレードランナーと名乗るカルテットで、90年代後半から2000年代前半にかけて散発的に演奏し、ゾーンの1999年のアルバム『Taboo and Exile』の1曲にも参加した。ペインキラーでミック・ハリスにしたのと同じように、ゾーンはロンバードに、彼が敬愛するミュージシャンであるラズウェルと演奏する機会を与えた。ネイキッド・シティのベーシスト、フレッド・フリス—イギリスの前衛ロックバンド、ヘンリー・カウでも演奏しており、80年代前半のプログレ・パンク・バンド、マサカーでラズウェルと共演した経験を持つベテラン即興演奏家—がギターでグループを締めくくった。
「彼には奇妙な性質がある。キューピッドのような性質とも言えるだろう」「彼は人々を一つにまとめる。どうやってそれをするのか私には分からない。私にはその才能がない。それを実現するにはある種のエネルギーが必要だ。そして、異なる音楽言語を話せることがその大きな部分を占めていて、彼は本当にその点で熟達している」とゾーンはパットンについて語る。
「(ジョンは)パットンを通じて、90年代後半の僕のお気に入りのバンドのひとつがビル・ラズウェルのラスト・エグジットだと知った」「あのバンドが大好きだった。だから僕がラズウェルに夢中だと知ったとき、彼は『ああ、ラズウェルは友達だよ。一緒にライブしよう』って言たんだ。びっくりしたよ。『え? ラズウェルと演奏できるの?!』って感じだったよ。」
ペインキラーと同様に、バンドのセットリストはすべて即興で、スレイヤーで完成させたスピードメタルの猛攻から、バンドのジャズやダビーな他の部分を引き立てる鮮明でファンキーなビートや微妙なアクセントまで、ドラマーは自分の能力をフルに発揮することができた。
ニューヨークやパリ、ロンドンのバービカン・センターでのジャズフェスティバルでバンドが受けた熱狂的な歓迎を思い出しながら、ロンバードは20年経った今でも感動が冷めていないかのように興奮気味に語る。
「ステージで共有した素晴らしい瞬間の数々—ゾーンが僕を指差して『もう少しあれを…』—彼はただ指揮をして聴いていただけだった」「しかも、すべて即興だった!ステージに上がって40分ほど演奏すると、みんな全部楽譜に書かれていると思うでしょうけど、そうではなかった。見事な演奏だったから誰も即興だとは誰も気づかなかった。」
ブレードランナーは、ロンバードがスレイヤーに復帰した2000年代初頭に活動を休止したが、ドラマーがメタルバンドから完全に離脱した2014年に活動を再開した。2015年には、ロサンゼルスで1日がかりで行われたゾーンマラソンの一環として、ゾーンとロンバードは、ロサンゼルス郡立美術館のジャクソン・ポロックの絵画の前で、ブレードランナーとデュオの両方で演奏した。
「ポロック展でのデュエットは非現実的な出来事だった」「ロンバードがドラム、ゾーンがサックス。信じられないようなことが起こる。とても本能的で、とても原始的で、お互いの音を聞きながら、その一瞬一瞬にお互いが音楽がどこへ向かおうとしているのか、それだけだった。」とロンバードは語る。
「ゾーンと演奏するのは僕にとって解放であり、自由です」「束縛するものは何もない。形式もなければ、音楽的な方向性も何も指示されない。とにかく爽快で、違うジャンルで演奏するいつもの音楽に戻っても、気分がすっきりして、浄化されたような気分になる。まるで悪魔祓いのようで、その中心に自分がいる、ただただ驚異的だった。」
Part3に続く