![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/29498339/rectangle_large_type_2_ada99ce3cdd82c38d6b5ae8369506487.jpg?width=1200)
圧倒的な現実を前にして、アートが祈りが何になるんだ?って絶望するのは簡単なんだけど
世界の大きな動きを前にした時にアーティストとして考える作品や己の価値のもやもやについての長文。
”まじないのハコをとじた”のテーマで描いた作品の一つ
「そっとささやく三つ四つの祈りのハコ」という作品があります。
このタイトルにある3つ4つの祈りというのは
”ニーバーの祈り”と”慈悲の瞑想”からきているもので、このハコに込めたまじないの核になっています。
・ニーバーの祈り とは
”神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ”
という、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーさんが教会で祈ったというもの。
・慈悲の瞑想 とは
”幸せになりますように
自由でいられます様に
願いが叶います様に
悩み苦しみがなくなります様に”
と唱えながら行う仏教の瞑想のこと。
まじないのハコの”まじない”とは、UGYAUの想った祈りや願いを込めることがほとんどですが
このハコに関しては、より一般的に広く知られている祈りや願いをテーマに制作したものです。
祈りや願いはそれをすることによって他力本願に超越的な力にすがるってことじゃなく
その想いを自身の内側に満たすことによるマインドの変革と、メンタルを向上させることが本当の意味なのだと思っておりまして、
自己改革を行う己への決意表明みたいなものだと思うのです。
でも、自分の心の中だけで決心してもそれってちょっと効力的にどうかなあって部分があるから、神様だったり何か超越的な存在や大切な存在へ向かって宣言をして、意思が揺るがないようにするために行う”まじない”なんだろうなあと。
わたしはとてもとても意志の弱い人間なので決心したことをすぐに諦めてしまったり、そもそもやる前から逃げてしまったりするその辺にゴロゴロしているダメなタイプの輩なわけなんですけど、
それでも向上心だけは何故か捨てられずに生きているので、自分のダメさ加減との戦いをまあだいたい8:2くらいで負け越し続ける人生を送っていたりします。
つらい・・・。
例えばおにぎりを食べていてうっかり包んでいたアルミホイルを噛んでしまった時の様な、あるいは素足で歩いていた部屋の中でおやつに食べたお煎餅のかけらを踏んづけてしまった様な、やんわりとした地味な自己批判とストレスを日々感じている。
それでも今よりもちょっと良い自分へ変わりたい、明日の朝を迎えた時に楽しい気分で布団から出たい。
なので、そんな弱い自分の背中を押してくれる何かがあったらいいなと思う。
自分が折れないためのちょっとした支えがあったら嬉しいなと。
わたしにとっての祈りはそういう存在なんですよね。
だから、同じ様に今をちょっと変えたいと思っている誰かが不安の中で頑張ろうとしているとした時に、その気持ちを支えるわずかな力になればいいなと、
私の作品がそういう気持ちにそっと手を添わせるものになればいいなと
おこがましくも思っていたりするのです。
でも、
今の世界情勢の、この圧倒的などうしようもなさを目の当たりにしてしまうと
そんな弱々しい思いが一体何になるのだろうという絶望感を感じてしまって、世界が良くなることに対しての己の力の無力さを痛感してしまって
わー、本当にわたしってゴミ!だと思ってしまう。
世界中いつでも常にどこかで幸せでない出来事が起こっているわけですが、本日(記事の投稿が間に合わず、すでに昨日になってしまったけど)発動した香港の国家安全維持法とそれによる世界の動きには何か殊更にメンタルを持っていかれておりまして、
普段はなるべく書かない様にしていた政治経済や時事問題についてあえて書き残してみようと思った次第なのです。
この、大きな世界の転換点はこれから一体何を及ぼしていくんだろうか。
一部の組織の維持のためにとんでもない数の人や企業の自由が無くなって、あっという間に不自由になって幸せでいられなくなっていく。
チベットがあってウイグルがあってついに香港も!
脅威がもはや他人事ではないすぐ側まで来ていることへの実感がようやく脳まで到達した感覚。
(サイレントインベージョンのこともわりと積極的に勉強していたつもりでしたが、やはり知識で知っていただけなのと肌で感じるのとは違うのだなあ…)
その様な世界を目の当たりにしたときに、
幸せな日本という国の中にいるUGYAUという存在は、のほほんと生活していてアートだ自己表現だ、祈りだ願いだやっているけど、
その意味のなさ無力さたるや、全く絶望的に存在価値がない!(断言)
私一人がそう思ったところで世界がどうなるものでもないわけだから、ここでただただ打ちひしがれて悲しんだとしても、
本当に究極の偽善だし”かわいそう”という気持ちを使ってのマスターベーションみたいなもんにしかならない。
そんなことを思ったところで、じゃあ今から政治活動家になるのかと言われたらなれないし、お金も権力も持ってない!なんもない!
それで、結局わたしがUGYAUとしてできることと言えば、
これは”変えることができるもの”だと信じ
わたしとご縁のあった近い距離で繋がった誰かとに向けて、
その誰かの日々のわずかな部分がちょっとだけ幸せになる様に、楽しくなる様に、
欲を言えばその人の精神が向上するきっかけになる様に種をまく(因をつくる)こと。
(現段階では)
UGYAUの活動から発生した因縁の因はめぐりめぐって貴方や誰かとの縁となり、それが良いエネルギーになって広がっていくと祈り信じる。
そこに本当に意味があるのかと言うことは、
アルミホイルを噛みながら自問自答する日々なのですが…
先日行った銀座からのオンライン個展で、
生配信対談をしてくださった銀座中央ギャラリーオーナーの中村さんが
「アートは心の栄養」とおっしゃっていました。
栄養補給できなければ体も心もダメになってしまう。栄養は必要不可欠な要素。
私の作るものもただの余分なカロリーではなく、貴方や誰かの心に必要な栄養になって、
そこから素敵なエネルギーとなって
たくさんの自由や幸せにつながると良いなあと思うのです。
それが、
"変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気を"与える事になったら素晴らしいだろうし、
そうしたらわたしもゴミではなくなるかな〜