虐殺の文法とは一体何だったのか?
友人が突然伊藤計劃を見始めたので、当時を振り返りつつ感想をまとめていきたいと思います。
※一応言語学を専攻していた身として、学術的な観点から感想を述べていきます。ただ、象牙の塔を離脱してから少し経つのと、専門は生成文法ではなく、言語習得(バイリンガリズム)/語用論/社会言語学だったので、そのあたりはご容赦ください。
虐殺の文法は果たして文法なのか?
結論から述べると、虐殺の文法は言語学で定義されるところの文法(grammar)ではない。実態としては、語用論(pragmatics)に近いと思う。
普段よく使われる文法(grammar)は、厳密に言えば統語論(syntax)を指している場合が多い。
数、性、時制、態、相といった名称は、統語論の分野で扱われる代物だ。
(ちなみにチョムスキーの生み出した生成文法は、統語論に分類されている)
そもそも、文法の定義は難しい。
文法の定義をきちんと書くために『言語学入門』を久しぶりに読み返してみたのだが、なんとどこにも定義が書いていない!!!
「~とすれば」ばかりである!!!なんてことだ!!
作中では、それよりもっと広範囲な「言語が体系だった言語としての体裁を保つためのルール」としての文法を指しているように思われる。
上記の『言語学入門』から引用すれば、文法とは規則の集合体――すなわち、言語を言語たらしめる体系そのもの。
これになぞらえて、虐殺を引き起こす言語運用の規則の集合体を文法と名付けたのだと思う。
個人的な感想を述べると、文法と呼ぶのは誤りというほどではないけれど、実態としては少し違うかな、と思う。
他にも言語学的な観点から見れば、ジョン・ポールはチョムスキー過激派みたいなところがある(しかも初期の)。
『虐殺器官』において、虐殺の文法に「個々の言語で通用する普遍性がある」ことの根拠として、チョムスキーの理論が使われている。
こんなことに言語学を使うなんて発想がすごい、と思うと同時に、現在の主流とはやや違う扱いがされているな、というのが第一印象だった。
作中で用いられたチョムスキーの理論と、現在の言語習得の分野での主流の学説は少し違う。
というわけで、虐殺の文法の根拠としてあげられた、生得主義、生成文法、普遍文法について書いていく。
(なお、チョムスキー氏はいまだご存命である。映画で具体的に名前が出てこなかったのを、一緒に見に行った友人は「チョムスキーはJASRACに登録されている」などと言ったのだが、余計な火種を避けるためにも言及は避けたのだろう。翻訳されて合衆国で出版されたと聞くが、はたして本人は知っているのだろうか?)
①生得主義と行動主義
虐殺の文法は、あらかじめ脳に備わった言語能力の一部として扱われている。すなわち、生得的な能力。
生得主義とは、生まれながらに言語を話す能力を備えているとする考え方。
これと対立する概念の行動主義とは、インプット(簡単に言えば言語と接すること)がなければ言語を話せないとする考え方だ。
歴史的には、生得主義は、当時主流だった行動主義に対するカウンターとして提唱された。
しかし、言語能力が生得的だからといって、一切の接触がなければ、言葉は話せない。
例えば、狼に育てられた双子は、完全にインプットの欠如した状態で成長した。彼女たちは言葉を全く話せなかった。
現在は両者を取り入れて、人は言語能力を生得的に備えているが、インプットがなければ発達させることができないとするのが主流だ。
作中では、言語能力は生得的に持ち合わせている「器官」と見なされている
(後述するが、「器官」というのは普遍文法を指している)。
このあたりは生成文法の考え方で、まさしくジョン・ポールはチョムスキー派の急先鋒である。
現在の主流でないとはいえ、虐殺の文法に普遍性を持たせるため、作中ではバリバリの生得主義を採用したのだろう。
②普遍文法――脳に内包されたシステム
生得主義は普遍文法という概念と結びついている。
普遍文法(Universal Grammar、略してUG)は、人が生得的に脳に組み込んでいる言語能力のことだ。
生得的な機構――すなわち「器官」。
「虐殺器官」の名称は、ここに由来する。
初めて見ると「何を言ってるんだ」って感じでしょうか。
チョムスキーが唱えたこの仮説は、子どもの母語習得の過程で説明されることが多い。
子どもは間違った文の例に接しているにもかかわらず、勝手に正しい言語を覚えていく。間違った(もしくは不完全な)インプットばかりでも、子どもは正しく言語を話せるようになる。なぜなら、生得的に言語能力を持ち合わせているからだ。
作中では、ピジン語が洗練されてクレオールとなり、次世代の母語となる事例が挙げられている(これも子どもの母語習得の話だ)。
言語を問わず、人はみな、普遍文法を脳内に備えている。だから、特殊な環境下でもない限り、子どもは勝手に言葉を話せるようになる。
チョムスキーは、普遍文法によってすべての言語を説明できるとした。
そして、虐殺の文法は、普遍文法と同じくすべての人間の脳にあらかじめ備わっている。
(むしろ普遍文法の一部という見方もできるのかもしれない)
生得主義と普遍文法によって、虐殺の文法は言葉を話せる人間すべてに受け入れられる。
誰もが虐殺の文法を受け入れる素養を備えているからだ。これが器官と形容されている所以だろう。
言語学的な話をすると、普遍文法については当然、さまざまな批判が沸き起こったりもした。
ポライトネス理論(語用論)でも、西洋を中心とする言語学に対する非西洋圏からの反発はかなり多かった。
(西洋文化圏と非西洋文化圏の対立は根が深い)
研究者というのは2種類いる。分類したがるタイプと共通点を見いだそうとするタイプ。チョムスキーは後者だ。
しかしながら、世界には無数の言語が存在するため、普遍文法は概念的存在にとどまっている。
作中でも、虐殺の文法がぼんやりした形でしか提示されないのは、元となった普遍文法がそのような性格であるからだろう。
③生成文法と表層構造/深層構造
人の言語能力が生得的であるとしても、それだけでは虐殺の文法が世界中の言語に適用できることにはならない。そのために持ち出されたのが生成文法である。虐殺の文法が言語によらず効果を発揮できるのは、虐殺の文法が深層文法だからと作中で定義されている。
深層文法というのは本作の造語のようだが、元になったのは生成文法で提唱された、表層構造と深層構造のことだろう。
例文1:トムはメアリーを殴った。
例文2:メアリーはトムに殴られた。
生成文法の考え方では、この2文は表層構造は違うが、深層構造は同じになる。殴った人間はトムで、殴られた人間はメアリー。主語を入れ替えたとしても事実は変わらない。
それ以前の句構造文法では、能動態と受動態の関連を説明することができなかった。しかし、チョムスキーが表層構造と深層構造という区別を持ち込んだことで、うまく説明できるようになった。
(チョムスキー自身がのちにこの考え方に修正を加え、最近では表層構造と深層構造の区別もないらしいが、専門外なので割愛する)
生成文法について詳しく述べようとするとめちゃくちゃ統語論の話をしなければいけないので、ここでは省略(興味のある人は調べてみてください)。
つまり、ジョン・ポールは初期のチョムスキーの理論を信奉しているわけだ。
ただ、この考え方にも、当然ながら批判が存在する。
語用論で言うと、これは明確に区別されてしかるべき要素である。
主語を誰にするかで含意は変わる。例文1と例文2は、全く同じ文章ではない。でなければ、受動態なんて形式が発達するわけもない。
そのへんの掘り下げは、作中でなされない。言語学を論じたいのではなく、生成文法はあくまで舞台装置の根拠として登場したにすぎないからだ。
このあたりはもうちょっと言及が欲しかった。やや物足りなさを感じるのが正直なところ。
ジョン・ポールが初期のチョムスキーの理論に則って理論を組み立てたとすれば、あまり言及しないのが正解だけど。
現実にありうる形の虐殺の文法とは
生得主義も普遍文法も生成文法も、舞台装置にすぎない。虐殺の文法に普遍性を与える根拠として導入された概念だ。
現在の主流がどうあれ、そういった考え方が過去に提唱され、教科書に載るレベルで知れ渡っている概念を利用しているにすぎない。
伊藤計劃はとてもよく言語学を勉強しているが、別に言語学の話がしたくてこの話を書いたわけでもないのだし。
虐殺の文法が文法でないと感じたのは、それが既存の言語を利用して生み出された「文法」だからだ。
まったく新しい文法は、まず人に理解されない。人に通じるためには、よく知られた言語運用のフォーマットに則っていなければならない。
ごく普通に聞こえるはずの言語に潜む虐殺の文法。
ごく普通の文に異なる意味合いを持たせるというのは、語用論の範疇である。
虐殺の文法とは、人の憎悪を駆り立てる語用論的なストラテジーではないかと推測している。
「虐殺の文法」という名前を見て最初に想起したのは、あの鉤十字で有名なチョビ髭の大総統だった。彼は巧みな演説で国民に選ばれ、正当な手段で政権を握った。
その後の展開は言うまでもない。彼は国民の虐殺器官を呼び起こし、ホロコーストに至らしめた。
作中でももちろん言及されている。「ナチスドイツの話し方研究」――ジョン・ポールの初期の研究だ。
この研究は、どうも談話分析ではないかと思われる。ヒトラーの演説を書き起こし、虐殺を引き起こす特定のフレーズ、イントネーションなんかの共通点を見出したのではないかと思う。
文法解析とは言うものの、解析されるのは統語論的側面だけではないはずだ。
より効果的に人々を扇動するためには、意味論的な分析も必要になる(意味論と語用論の境界は曖昧)。他にも様々な要素が絡んでいると思う。
最も実現可能性が高いのが、語用論の分野での新しい規則――「文法」だと思う。
語用論とは、文の含意を研究する分野だ。「文がその言葉通りでない意味に解釈されるのは何故か」を研究する。
虐殺の文法は、まさにこの「言葉通りでない意味を含む」という点が合致する。
虐殺の文法は、ごく普通の言語運用で行われる。でなければすぐに特定されて、隠密に虐殺の文法を行使することはできない。
ごく普通に聞こえる文に虐殺の引き金を引かせる何がしかを含ませる。
そうと見えない文に潜んだ虐殺の文法が、ひそかに人々に生得的に備わった虐殺器官を励起させ、混沌の渦に突き落とす。
このあたりから見ても、虐殺の文法は語用論的な性格を備えているように見える。
Brown&Levinsonのポライトネス理論を逆手に取り、すべての言語で共通する、恐怖心や猜疑心を掻き立てるストラテジーを見つけ出し、それを行使して虐殺を巻き起こす、もありではないかと思う。
(ポライトネス理論:円滑な人間関係を確立・維持するための言語行動。これも普遍文法と同じく、普遍性が主張され、そして数々の反論を生み出した)
ただ、語用論というのは知名度が低い。言語学をやった人間でなければ知らないだろう。
ネーミング的には「文法」のほうが圧倒的に通りがいいから、そのような名付けをしたのも間違いとは思わない。
世界の破滅の過程
北米を中心に巻き起こった混乱は全世界へ波及した。これには2通りの解釈ができると思う。
1つは、政治的・経済的混乱が波及した場合。そしてもう1つは、虐殺の文法が英語を介して他の言語へ伝播した場合。
ここでは後者の可能性について述べる。
まず、アメリカ英語で虐殺の文法を行使するとどうなるのか?
真っ先にカナダは巻き添え確定である(かわいそうに・・・・・・)。
カナダ英語はアメリカ英語とほとんど変わらないので、あおりを食らって道連れになること間違いなし。
英語を公用語とする国、イギリスやオーストラリアもさほど時を置かずして巻き込まれるだろう。
次に向かうのは、英語を第二の公用語とするところ。インドあたりとか。ただ、インドの英語は訛りが強いので、少し遅いかもしれない。
英連邦の国々は歴史を共有しているのもあって、遅かれ早かれ巻き込まれる。英語と関わりが深いほど、影響を受けやすいはずだ。
また、第二言語(L2)から第一言語(L1)への影響も無視できない。
(transfer、転移と呼ばれる概念。L2で学んだことがL1に影響するという考え)
日常生活で英語を使わないが、英語教育を行う国も影響を免れないだろう。
欧州諸国は英語の得意そうな国から巻き添えな気がする。オランダや北欧は英語が得意だし、そもそも英語と系統的に近い言語なので、フランスより早そう。
フランスはきっと遅い。なんてったってあそこ、英語教育に失敗していますからね。
日本は日常で英語を使わないし、かなり後の方かなと。
英語教育に成功した国ほど影響が強く、日本みたいに英語教育に失敗している国はたぶん遅い。
英語圏の帰国子女は地雷扱い。いつ爆発して周囲に虐殺の文法をまき散らすか、戦々恐々。たぶん、虐殺の文法が英語由来と判明したら、相当迫害される。
バイリンガルが虐殺の文法を使うようになったら、かなりやっかいだ。第二言語から第一言語へ容易に転移させ、拡散させてしまうだろう。
話す言葉に虐殺の文法が混ざってしまった人がそのまま別の言語で話してしまえば、虐殺の文法は容易に転移する。
生き残るのは、原始的な生活を営むところ。英語などまったく知らない閉じた共同体は、世界中の混乱をよそに普段通りの生活を営んでいるかもしれない。
ジョン・ポールは虐殺の文法のコントロールができていたが、クラヴィスにできるできない以前に、そのつもりがあったのかなかったのか、よくわからない。
ただ、英語で虐殺の文法を行使してしまったなら、ジョン・ポールであってもコントロールは困難だったと思う。
グローバリズムの波に乗って拡散する以上、世界で最もよく知られた言語でやられてしまうと、とどめる術がない。
そうでなくとも、「虐殺の文法の効果範囲を単一言語とその周辺に限定するのは容易」とジョン・ポールが言い切ってしまったのは、やっぱり突っ込みどころになると思う。
なぜなら、「方言連続体」という言葉が存在するように、言語と方言の区別は困難だからだ。
誰だったかは忘れたが、「言語とは軍隊と国境線を備えた方言である」という文句がある。
例えば、ベルギーの公用語、フラマン語とワロン語は言語扱いされるが、実際のところはオランダ語とフランス語の方言だ。フラマン語とオランダ語の違いは、アメリカ英語とイギリス英語よりも小さいらしい。
標準ドイツ語と標準オランダ語は通じないが、ドイツとオランダの国境線付近に住む人々の方言は互いに通じる。
そもそも、言語を区切ることはとても難しいのだ。
他の言語で虐殺の文法を行使するまでもなく、世界共通語たる英語ひとつだけで、世界は破滅に向かうだろう。
世界中に虐殺の文法を適用するために舞台装置として普遍文法や生得主義が持ち出されたが、そんなものがなくても、グローバリズムの進んだ世界は勝手に滅びの道をたどっていく。
虐殺の文法を行使された「我々」について
ここからは純粋に本作の感想。
原作を読んだ当時、「ホッブス的な混乱」が何を意味しているのか、全然わからなかった。
今ならわかる。あれは「万人の万人に対する闘争」のことだ。国家が崩壊し、秩序を失い、自力救済のみの世に逆戻りすること。
クラヴィスが英語で虐殺の文法を使ったのは、アメリカによって不利益を被る国を減らす、という理由が挙げられている。
ただし、これは欺瞞でしかない。わたしは、クラヴィスの遠回しな自殺なのだと感じた。
そんなわけがない。輸出という外貨獲得の手段を失った発展途上国は、すぐさま困窮する。綿密につながった社会(当時は拡大し続けるグローバリズムのまっただ中)で、輸入が止まったらとんでもないことになる。
現に今、新型コロナウイルスで経済はめちゃくちゃだ。
だから、あれはクラヴィスの鉄道自殺みたいなものなんだと思う。
周囲を巻き添えにする意識も薄く、ただ、目先の手段に飛びついてしまったかのような。
アメリカが世界に迷惑をかけているから、ともっともらしい理由をつけて、虐殺の引き金を引いた。
クラヴィスには生きている実感というものが希薄だ。
各種投薬やカウンセリングによって、現実は丁寧に切り離されている。自分の命の危険でさえも、ゲームのようにどこか遠くに感じながら任務に就いている。
クラヴィスは繊細な文学部の大学生の性質を、よりによって軍隊の中で保ち続けている。
生きているのも死んでいるのも、クラヴィスにとっては似たようなものだったのかもしれない。
このエピローグは、映画では全カットされている。
あれは映画を観ている我々が今まさにクラヴィスによって虐殺の文法を行使されているのだ、という演出ではないだろうか。
客席に座るわたしたちこそが、虐殺の文法によって虐殺器官を呼び起こされようとしている。そういう意図が込められていたとわたしは受け取った。
『虐殺器官』が世に出てから、既に10年以上が経過した。
SNSの発達により、情報は急速に伝播するようになった。扇情的な投稿はすぐさま拡散し、拡大してしまう。フェイクニュースによって無実の人間が死ぬ事態まで発生している。
広くつながった社会は、言語文化の壁もたやすく飛び越える。
多くの人々の憎悪(あるいは義憤)を駆り立てるのは、とても容易になったと思う。
これこそが、クラヴィスがわたしたちに行使した「虐殺の文法」であったのかもしれない。
であれば、わたしたちは既に、虐殺器官を目覚めさせた状態でいるのかもしれない。
参考文献:
佐久間淳一・加藤重広・町田健著『言語学入門 これから始める人のための入門書』
PDF版はこちら。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?