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R5.6.27 ところで『勝利の女神 : NIKKE』を遊び始めた。

バイト=リセット

毎週日曜日にバイトがある。その後にラーメンを食べて1週間が終わりを感じる。今週はラーメン二郎京都店に行く。
ここのチャーシューはとても厚いので噛むのがとても大変で、アゴが外れるかと思った。

バイトはすでにやることが馴染んでいて半分以上無意識的に動いている。したがって頭の隙間ができる。その時間はふだんよりも頭の中で饒舌に考えている。

この前はひたすらに言語ゲームが言語の意味とはその対象であるという考えから脱却するために導入されたことについて考えていた。
その果てに辿り着く言語ゲームにもとづいた言語観とは、意味を介在させない言語のあり方について想像力を働かせてくれる。

意味というにがないなんて、とんでもない! そんなことをしたら言語が崩壊してしまう! なんて思いもしたが、案外そうでもない。意味って言語を考えるのに必須の観念ではなかった。

この瞬間意味について考えてしまうなという時間は多々訪れるが、でも考えるという行為そのものに意味が付随してくるのだから仕方がない。

言語ゲームはとても動的なもので、淀みなく動き続け(考えないで話す、そしてコミュニケーションが編まれる)、規則が見出される。

でもこれって瞑想だとか考察だとかするときには、ゲームみたいなコミュニケーションから降りて何かをしていることになる(でも考えに使っている言語はゲーム由来のもの)。

してみると、意味から言語ゲームへを動くことは、日常的なコミュニケーションに帰る運動となる。

断片へと圧縮するのと、解凍? 翻訳? してみることと、小さなやつと大きなやつと社会性

圧縮するとどれも似たような感じがするが、それを解凍する方法は一様じゃない。

文章に問題を限定して考えてみると、「リンゴちょうだい」って文は「リンゴ」とも「ちょうだい」とも、コンテクスト次第では圧縮されうるし、その解凍は受け手がコンテクストに則っているのであれば一様に受け取られる。

でもこの圧縮されたやつが、そのコンテクストから切り離されてしまうと途端に解凍が効かなくなる。
とくに文字の上での受け取られるようなものとか、圧縮の方法がわからないのが普通だ。何が圧縮される前の姿なのかわかっているのが稀だろう、書いた本人ですらわからないかもしれない。

ところで『勝利の女神 : NIKKE』を遊び始めた。

これのチュートリアルの最後にてムービーが流れるのだが、その映像はおよそ要素とされるものがゴロゴロと並び、よくあるセリフが流れることで、様々な物語が圧縮されて、プレイヤーへと伝わる。

ムービーには、つまり断片しか詰まっていないのだ。
加えてシナリオ自体も面白いのだが、その展開自体もかなりゴロゴロとしたもので、説明そのものである展開を連続して流して素描している。そしてこの果てに圧縮された断片がやってくる。それを受け手が自分なりに解凍することで物語が頭の中で形となる。

あるものが切断されるわけじゃなくって、始めから断片的にしか取り出されないところに妙がある。そして断片化されたものに働かせる想像力が勝手にその物語を良いものにしてくれる。
でもこの理屈でいくと断片化されていたらなんでもかんでも良いものとして受け取られてしまう。なぜ良い断片化と低質なものとかがあるか、その判断がされるかは別問題だろう。

私はこの新問題について、音楽などと言った時間を作品に委ねなければいけない形式の質によって担保されているからだと考えている。

文章は断片化されうるが、映像や音楽は初めから断片であり、同時に全体的で連続的でしかありえない、そうだと直観しているわけだが……。
時間的に受け取られるものとのメディウムには、時間性と無時間性がそなわっている。
時間性とは時間が流れていくのを感じることであり、無時間性とは時間がなくなっていく感覚、特に一瞬をとても長く感じさせるような感覚だ。

時間的なメディウムはこの時間性と無時間性が代わる代わる訪れることによって意味を溢れさせる。
このようなメディウムに断片的な文字が載せられるところに、圧縮された文章が意味の間欠泉となる新しい次元を加えるのだろう。

動的に判断するって、なに

なんにでもかんにでもわからないって言うのはどうかと思うので、わかるものはわかると言うようになってからが大事なのだろう。ほんの少ししかわからないのなら、そのわかったところを大事にするしかない。わからないことが多かったとしても、それらを一絡にしてわからんと言うのではなく、それぞれわからんと言うしかない。

ソクラテスの「無知の知」は本来ならこの意味で理解されるものらしい。あーだこーだ言っているのは「世界哲学史1」で読んだ。

知を持っていることではない。知に対する態度への拘泥に、知を愛する態度がある。そういう話だろうか。


前期ウィトゲンシュタインについて考えてみる。前期は語り得ぬ線を引くことで一挙に解決してみせようとしていた。これを知る、これを知らないの判断は言語の混乱かどうかによって判断される。しかし、知らないことは考えても仕方がないという態度は正当化されうる、これが前期がやろうとしたことなのだろうか。

もはや哲学はなんど繰り返し判断しても知らないとしかいいようのないラインに来ている、立ち返れ。このような解釈は……しかしテクストから離れている。

あの人がやろうとしたことはあーだこーだ言うのは哲学ではないよな。

まぁそれは置いておいて、最近気になっていることは哲学の本を読むときの態度だ。わかるわからないで聞かれれば、わからないとしか言うしかなくなってしまう。そういう風に一挙にわからんと言うのではなく、まぁこれはわかる、これはわからん、こっから眺めるとわからなくなる……。という風な動的に読める読めないを判断していくのが正しい向き合い方たりえるのだろうなって考えたわけだ。

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