佐瀬寿一インタビュー(『佐瀬寿一の部屋』より再録)

現在、BS-TBSで再放送中の山口百恵主演『赤い衝撃』(77年/TBS)でにわかに盛り上がってる主題歌「赤い衝撃」。シリーズ初のシングルA面に昇格したこの曲を書いたのは、同年キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」を手掛け、当たり年だった作曲家の佐瀬寿一さん。75年に「およげ!たいやきくん」が460万枚ヒットさせた、日本で一番シングルを売ったギネスホルダーでもある。以前、公式HPをお手伝いしてた縁で、今は読めなくなってるロングインタビューの再掲載許可を貰ったので、よかったらお読みくだされ。

(1)

ーー高校時代にバンド活動を始めて、『勝ち抜きエレキ合戦』(フジテレビ/65~66年)に出演されていた、ビートルズ第一世代。大学は当時音楽が盛んだった、日大芸術学部放送学科に進まれています。
佐瀬 同じ時期には、松崎しげるさんがいましたね(GSグループ、ホットミルク在籍)。同じ49年生まれだけど、僕は早生まれなので学年はひとつ上でしたけど。
ーーグループサウンズでプロデビューしてたかもしれない、予備軍の中におられたと。
佐瀬 いや、それほどうまいわけじゃないからさ(笑)。
ーー一当時のレパートリーはビートルズ曲ほかですか?
佐瀬 コピーやりつつ、オリジナルもやってました。エレキの編成で。それが3つぐらいあったと思う。ダンパ(ダンスパーティー)とかで、呼ばれては営業で行ってました。
ーー担当はキーボード?
佐瀬 いや、当時はギター。今はピアノだけど。ちっちゃいころに習ってたんで。バンドやってるとキーボードってあんまり目立たないでしょ。キーボードのいるバンドってあまりいなかったし。
ーー早い時期にそこから、作家活動にシフトされますよね。
佐瀬 そのころ、ニッポン放送に『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』(66年~72年)って番組があって。ビリー・バンバン、ブレッド&バター、ジャックス、エンケン(遠藤賢司)とかが出ていた。僕たちのバンドもたまに出てたのね。番組ディレクターだった金子洋明さんがやってた、ミュージカル・ステーション主催のコンサートの前座に出たり。
 そこにピオニーズって女性デュオがいて、すごくいい声してたの。彼女らも自作自演なんだけど、「今度曲書くから歌ってみない?」って誘って。曲書いて持って行ったらえらく好評だったんで、レコードにしたいと。それが「消えた想い出」(69年/日本グラモフォン。後のポリドール)で、僕の初めてのレコード。大学2年か3年のときで、まだ10代でした。詞曲とも僕なんだけど、詞は『バイタリス』のスタッフの人に手を加えてもらってましたね。

ピオニーズ「消えた想い出」(日本グラモフォン)

ーーデビューはフォークなんですね。
佐瀬 演奏は『バイタリス』用のCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)みたいな、ちょっとアコースティックなロック編成。編曲は川口真先生でした。
 そのとき、音楽出版社のPMP(パシフィック音楽出版/ニッポン放送の音楽出版社)の人に「印税にしますか? 買い取りにしますか?」って聞かれたんだよ。貧乏学生だから、目先のニンジン取るよね(笑)。それで3万円もらった。権利譲渡したの。
ーーそのときはキャッシュを取って、将来の印税を放棄したわけですね。番組から先行デビューしたビリー・バンバンが、「白いブランコ」で20万枚ヒットになったりしてましたけどね。
佐瀬 音楽で食えるかどうか、みたいな時期だから。あの3万円に吊られた(笑)。話題にはなったんです。ヒットはしなかったけど。
ーーそれに味をしめて、作家の道を進んだと?
佐瀬 変な自信が付いて。確証のない自信というか(笑)。その後で、中尾隆聖さん、当時は竹尾智晴って言ってたんだけど。頼まれて彼の曲を書いたんです。「あこがれ」(72年)って曲。
ーー『それいけ!アンパンマン』のばいきんまん、『ドラゴンボールZ』のフリーザ役で有名な声優さんですね。
佐瀬 テイチクに、テイチクとオールスタッフで作ったブラックレコードってレーベルがあったのね。いずみたくさんのレーベルだから、いずみさんの曲のカップリングになってるんだけど。

竹尾智晴「あこがれ」(テイチク)

ーー「たたかいのうた」のB面ですね。
佐瀬 それがレコードになった2曲目。そっちは印税契約にした。その仕事でテイチクのディレクターとも仲良くなって、自分のレコード出そうということになった。ブラックだとオールスタッフの資本が入ってるから手続き的にアレなので、テイチクの本レーベルでやろうということになって、「俺は今/駄目なオイラが旅立った」(72年)ができた。
ーー唯一の自作自演のレコードですね。
佐瀬 「俺は今」では初めて自分で編曲した。指揮も自分でやるわけじゃない。もうホントに手が震えてさ(笑)。そのころはまだ4チャンネル。もう8チャンネルはあったと思うけど。録音はグリーンバードスタジオ(当時はテイチク杉並スタジオ。99年に閉鎖)だったね。寺子屋みたいなスタジオで。
ーーいきなり編曲任されたのは、バンド経験が役立ったわけですね。
佐瀬 いや、個人的にもアレンジの勉強してたんです。ネム音楽院……恵比寿にあったヤマハ音楽振興会に通って、ストリングスやブラスアンサンブルもある程度勉強してた。当時作曲のメソッドを教えてもらっていたのが村井邦彦さん。編曲は森岡賢一郎さん。
ーー作詞は、今もお付き合いのある放送作家の高田文夫さん。
佐瀬 当時すでに高田さんはスタッフ東京で放送作家やってて。作家やってるんだから詞も書けるだろうと。作詞家で知ってる人誰もいなかったから。
ーーこのソロデビューは、1枚きりで終わったと。
佐瀬 もともと自分では、パフォーマーはそんなにやりたいと思ってなかったんです。ライターのほうをやりたかったから。1枚お皿(レコード)出したでしょ。そのとき、パフォーマーでやっていくには、なんか(自分は自信が)足りないなと思った。
ーーそのころはバンド活動は?
佐瀬 もうない。日芸は卒業してたから。それで食えないから、友達がヤマハでポプコン(ポピュラー・ミュージック・コンテスト)のディレクターやってて。木下(純)くんという、大学の同級生。そこのアレンジの仕事を始めるんです。コンテストには譜面の応募枠があって、アマチュアから送られた譜面を見て、面白いなと思う曲を、4、5人編成のバンド用にアレンジを起こすわけ。スタジオミュージシャンに演奏させるための。
ーー作家コンクールやってましたね。
佐瀬 そこで鍛えられたと思う。全国大会の前にブロック予選があって。関東甲信越の。そうすると弦のアレンジまでお前がやれって。
ーー実践を通して覚えていくわけですね。
佐瀬 でもリハーサルのとき、これおかしいよって言われたりするわけ。弦の人やディレクターに(笑)。
ーー当時、作家として目標となるような存在はいましたか?
佐瀬 もっと漠然と、音楽で食っていければなという感じ。バート・バカラックとか好きだったけど、そこまでなれるなんて思ってないから。
 もちろんヤマハだけじゃ食えないから、クラブでピアノの弾き語りやったりとか。今みたいにカラオケの装置はないから、お客の伴奏を弾く人間カラオケみたいな感じ。キーを瞬時に変えるとかね。

佐瀬寿一「俺は今」(テイチク)

ピオニーズ……田熊由美、北崎美知子、2人組の女性デュオのコーラスグループ。「パッパパパラ」、「サニー坊や」などのヒットで、近年ソフトロック分野で再評価を受けている。

『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』……66年~72年に渡ってオンエアされた、ニッポン放送のフォーク番組。構成作家は森進一「襟裳岬」で有名な作詞家、岡本おさみ。アマチュアのフォークグループの登竜門として人気を博した。同番組からデビューしたビリー・バンバン「白いブランコ」が大ヒット。

ミュージカル・ステーション……69年に設立された、日本初のフォーク/ロックコンサート制作会社。創業者は金子洋明。『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』の番組制作やアーティストマネジメントも手掛け、森山良子、五輪真弓らを輩出。

オールスタッフ/ブラックレコード……作曲家いずみたくが主催していたテイチクのフォーク/ロックレーベル。『飛び出せ青春!』主題歌など、いずみたくシンガーズがここからブレイク。後期はロックレーベルに軌道修正し、海援隊「あんたが大将」などがヒット。

村井邦彦……作曲家。グループサウンズ時代に、タイガース、テンプターズへの楽曲提供でデビュー。後に原盤制作会社アルファミュージックを設立し、荒井由実を発掘。アルファレコード設立後、細野晴臣のイエロー・マジック・オーケストラをブレイクさせた。

森岡賢一郎……編曲家。東海林修らと並んで、日本の歌謡界の黎明期に活躍。加山雄三「君といつまでも」、伊東ゆかり「恋のしずく」、ジャッキー吉川とブルーコメッツ「ブルー・シャトウ」、菅原洋一「今日でお別れ」など、日本レコード大賞編曲賞受賞作多数。SOFT BALLETの森岡賢の実父。

(2)

ーーしばらくは新人作家として、アルバム曲やシングルのカップリング曲を担当していますね。
佐瀬 小沢音楽事務所ってあるでしょ。その系列に音楽出版ジュンアンドケイという会社があるんです。そこに大学の先輩がいたの。原澤(智彦)さんっていう、歌手の宮前ユキさんの旦那さん。
ーー渡哲也の『浮浪雲』(テレビ朝日)主題歌「Give Up」を歌ってる、カントリーシンガーの方ですよね。
佐瀬 原澤さんに紹介されて、宮前さん(「旅立ち」ほか)、ダ・カーポ(「川風吹く街」ほか)、ちゃんちゃこ(「ひとりぼっちのギター」ほか)の曲を頼まれて書いて。いい曲書くねえって誉められたよ。あと、GSのオックスが解散して、そこのベースの人(福井利男)が作ったピープル(ローズマリーの前身)ってバンドがあって。「恋人たち」(72年/ワーナーパイオニア)っていうデビュー曲は、筒美京平さんと橋本淳さんなんだけど。「曲作ってみる?」って言われて、自分で言うのもなんだけどすごくいい曲ができた。「13月の森」っていう。でも。筒美さんと橋本淳さんが相手じゃ、A面にはならないだろうなって(笑)。そういうところで鍛えられたんです。
ーーもっぱらB面曲ではありましたが、一線級のアーティストの仕事していたわけですね。
佐瀬 ジュンアンドケイの代表の松村慶子さんの旦那さんが、ポリドールのプロデューサーだったのね。松村孝司さんっていう、タイガース「僕のマリー」とかの初期のディレクター。その方は“むつひろし”ってペンネームで、「グッドナイトベイビー」(ザ・キング・トーンズ)とか書いてる人なのよ。石川セリ「八月の濡れた砂」とか、ディレクターなんだけど名曲をたくさん書いてるの。この人が「百叩きの会」ってのをやってて。一種の梁山泊。2週間に1回とかさ。若手が集まってコンペやってたのね。放送作家で、作曲もやってますみたいな人とか。マニアックな曲書いてくる人もいたけど、僕はどっちかというとウケてナンボというところがあるんで。
ーー作曲千本ノックみたいな。
佐瀬 今度この人の曲やるからって、初めて僕が採用されたのが、ザ・キング・トーンズ「天気予報がはずれたら」(74年)。あれが作曲家として初のシングルA面になった。この曲は曲先で、岡田冨美子さんの詞ははめ込み。岡田さんは当時、NHK『ステージ101』(70~74年)とかで書いてる売れっ子でね。
ーー当時はまだ、ほとんどの新人作曲家が、先生の鞄持ち(書生)から始めてた時代。佐瀬さんはアシスタント経験もまったくなく、デビューできたわけですね。
佐瀬 そうだね。師匠なしの弟子なし。
ーー同世代で意識していた作家はいましたか?
佐瀬 そうだなあ。林哲司さんとかが同世代かな。あと佐藤健って、大橋純子さんの旦那さん。彼女の「シンプル・ラブ」、「クリスタル・シティー」、「サファリナイト」とかを書いてる。
ーーこの後、グラシェラ・スサーナにも書き下ろし曲があってビックリしました。
佐瀬 グラシェラ・スサーナも小沢音楽事務所なのよ。あそこは菅原洋一さんがいて、元々洋楽やってた人が多かったから。

ザ・キング・トーンズ「天気予報がはずれたら」(ポリドール)

ーーそんな歌謡界の王道路線と別に、エレックレコードという当時の鬼っ子だったフォークレーベルと関わりがあって、最初のヒット曲、ずうとるび「みかん色の恋」がリリースされます。
佐瀬 ネム(合歓の郷音楽院)のときの友達が、たまたまエレックでディレクターやってたんです。タケちゃんっていう。
ーー吉田拓郎さんのバックバンド、マックスのベーシストだった山口剛さん。愛レーベルのディレクターだったんですよね。
佐瀬 そうそう。歌謡曲のレーベルだから、実はそっちしか付き合いないの。ずうとるびは当初別の作家がいたらしいんだけど、事情があったようで「ダメ元でやってみる?」って声がかかって。ちびっこ大喜利(『笑点』)で名前は知ってたから。そしたら運良く、2曲書いたら2曲とも採用された。2曲あるから分けようってことで。
ーー「恋のパピプペポ」と「みかん色の恋」(ともに74年)。
佐瀬 そう。詞は誰にしようかって話になって、「天気予報がはずれたら」で組んだことあったから、岡田冨美子さんで。タケちゃんも岡田さんを知ってたし。
ーー「みかん色の恋」はどれぐらいのヒットに?
佐瀬 20万枚ぐらいかな。エレックじゃなかったらもっと売れてたと思う(笑)。
ーー愛レーベルというと、まりちゃんズも有名ですよね。
佐瀬 実はずうとるびのアルバムは全部、作編曲なの。どういうわけかシングルだけは「恋のパピプペポ」、「みかん色の恋」とも、編曲は竜崎孝路さんなんだけど。当時は天地真理やってた売れっ子だよね。どっちかというと僕はマニアックなアレンジしてたから、アルバムでは結構アナーキーなのよ。それ聞いてまりちゃんズをやってくれないかと。曲は彼らが書いてるから、アレンジだけやってる。「尾崎家の祖母(ばばあ)」(75年)なんかは僕がアレンジやってるんだよね。
ーーJASRACには編曲クレジットがないので、佐瀬さんの知らない仕事いっぱいありそう。
佐瀬 ニック・ニューサーって知ってる? 彼らのもアレンジだけやってますね。「サチコ」のカップリングとか。「ダンシング」は作編曲もやってる。

ずうとるび「みかん色の恋」(エレックレコード)

音楽出版ジュンアンドケイ……小沢音楽事務所の小沢淳と、元ポリドールの女性ディレクターだった松村慶子が設立した音楽出版社。リリィ「私は泣いています」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、森田童子「ぼくたちの失敗」、欧陽菲菲「ラヴ・イズ・オーヴァー」などがヒット。ライヴハウス「ルイード」の経営や、TM NETWORKのマネジメントも。

松村孝司……作曲家。ポリドール洋楽部ディレクターから邦楽制作に。在籍時にはザ・キング・トーンズを担当。作曲家として、石川セリ「八月の濡れた砂」、左卜全とひまわりキティーズ「老人と子供のボルガ」、さくらと一郎「昭和枯れすすき」などの大ヒットを生んだ。

エレックレコード……岡林信康のURCと並ぶ、日本のフォークレーベルの始祖。音楽通信教育のエレック社を母体に、69年設立。吉田拓郎、泉谷しげる、ケメ(佐藤公彦)らを大ヒットさせた。後に大滝詠一のナイアガラレーベル、アイドル専科の愛レーベルなどのサブレーベルが生まれた。

(3)

ーー74年は佐瀬さんにとって目まぐるしい1年だったようで、『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ/73~93年)の仕事も始めています。
佐瀬 大学のゼミでいっしょだった高田文夫さんが(パイロット版の)放送作家やってたから、野田宏一郎さん(フジテレビ・チーフプロデューサー/SF評論家の野田昌宏)に進言してくれたんだと思うけど。
 もう一方で、実は当時住んでたアパートに、浅井(鉄雄)さんてカメラマンの方は住んでおられて。
ーー後の『GORO』で有名になる、ヌードグラビアの大家ですね。
佐瀬 当時『ポンキッキ』のスチールカメラマンをやられてて、浅井さんにも紹介してもらったんだよ。高田さんと、ダブルって推薦してもらったというのが真実というか。
ーー番組スタート時には高田さんの名前が消えて、佐瀬さんはそこからが本番。初期はジャズの藤家虹二さん、越部信義さんら戦前生まれの作曲家ばかりの中で、若い世代代表として佐瀬さんがポツンと一人だけおられますよね。
佐瀬 (『ポンキッキ』は)当時作曲、編曲ワンセットだったのよ。自分で編曲できないと参加できなかった。
ーー最初の提供曲は「とけいのうた」でしょうか。ここでは唯一、佐瀬さん自身が歌っています。
佐瀬 他に歌える人はいればお願いしたかったぐらい。一回、自分で歌ってレコード出してるから、わかるからさ。演奏は合歓の郷のころの仲間がやってくれたのね。
ーー山口剛さんほか、マックスのメンバーですね。
佐瀬 このときのリードギターはチャー(竹中尚人)なんだよ。たまたま知ってる奴がいて。
ーー当時、エレック所属の生田敬太郎さんのバンドにいたんですよね。後に「およげ!たいやきくん」の初代シンガーをやられていた方(詳しくは書籍『昭和のテレビ童謡クロニクル』参照のこと)。
佐瀬 まだ10代だったけど、なんてうまいギターなんだと。
ーーそれに続くのが、「ママの右手は魔法の手」、「そらとぶさんりんしゃ」でしたよね。なぎら健壱さんも当時はエレックでしたけど。
佐瀬 番組サイドからの紹介ですね。すべてお膳立てされてたから。
ーーその後「およげ!たいやきくん」で最強のタッグを組む、作詞家の高田ひろおさんとここで初めて組まれます。
佐瀬 高田さんとはそれ以前からやってたの。ジュンアンドケイ時代に、ダ・カーポ「川風吹く街」(75年)とか、ちゃんちゃことか。『ポンキッキ』で再会したのはも、これはひとつの縁かなと。
ーー後年までリピートされる、いずれも番組の代表曲。キャッチーなメロディーが多くて。
佐瀬 コマーシャルで鍛えられたからね。人に覚えてもらってナンボだから。ホテル三日月「ゆったりたっぷりのんびり」とか。レコードが売れるかどうかは結果論なんだけど、人の心に入り込めるメロディーっていうのはあるから。自分の中の哲学みたいなものが。
ーーCMソングはいつごろから?
佐瀬 手塚治虫さんの虫プロってあったでしょ。あそこはコマーシャルの制作もやってたんです。そこが乳酸菌飲料でヨーク(愛知ヨーク。日清ヨークとは別会社)って製品のCMやってて。声かけられて、そのとき「消えた想い出」のピオニーズを使ったの。
ーー代理店じゃなく制作会社からの依頼なんですね。
佐瀬 代理店も兼務してたと思うんだよ。名古屋かなんかのメーカーだよね。これがいちばん最初。ギャラが1万円とか5000円とかの時代。

なぎらけんいち「ママの右手は魔法の手」(キャニオン)

ーー当時の『ポンキッキ』の録音環境について、改めてうかがいます。初期は河田町のフジテレビに近かった、高田馬場のアバコ(クリエイティブスタジオ)でしたよね。早稲田教会のコーラスを録音するために作られたと言われる、大きい録りのブースがある。
佐瀬 アバコは映像収録そのものができるから。ガチャムックの声のダビングもやってたし。MAからミックスまでできたんで。
ーー映像見ながら録音できる、シンクロができるMAスタジオが珍しい時代でした。レコーダーは4トラックでしたよね。
佐瀬 初期はそう。ヴォーカル用に2チャンネル空けておいて、残り2チャンで一発録り。でも、ダイアローグ(セリフ)のエンジニアが音楽もやってるからさ。思った通りに録れてるわけじゃなくて。別にするとお金かかるから仕方ないんだけど。こっちも新人だから意見は言えないし。「たいやきくん」が売れたおかげで、目黒のモウリ(スタジオ/現・モウリアートワークスタジオ)でやれるようになった。
ーー日本で最初に16トラックのレコーダーが入ったスタジオ。いきなり4チャンから16チャンになると。
佐瀬 いや、「パタパタママ」までは4トラックだったけど。「野菜畑の演奏会」は8チャンネル使ったと思う。ブラスセクションがあったんで、2チャンの同録だと怖いから。
ーー佐瀬さんはポップス出身のアレンジャーですが、ブラスやストリングスを多用しますよね。当時だと、シカゴとかBS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)とがブラスロックが流行ってました。
佐瀬 そのへんの影響があったと思うよ。アレンジ料は信じられないほど安いんだけど、『ポンキッキ』は音楽予算だけは潤沢に使わせてくれたから。「いいよ、好きな編成使って」っていうから。「およげ!たいやきくん」なんて、ストリングスも6:4:2:2(第一ヴァイオリン:第二ヴァイオリン:ヴィオラ:チェロ)だし。
ーー錚々たるスタジオミュージシャンが参加してたんですよね。インペグは、ピンク・レディーなどの歌謡曲や、スペクトラムのメンバーのブッキングで有名なボーダーラインでしたし。
佐瀬 ピアノはハネケン(羽田健太郎)、ギターは水谷公生さんか矢島賢さん、ドラムは竹田達彦さんか田中清さん、ベースはチーボーこと武部秀明さん。高中(正義)さんも弾いてて、たぶん「ホネホネ・ロック」だったと思うけど。
ーーそのころはまだ、スタジオ仕事はジャズミュージシャンがやってることが多かった。譜面が初見で読めないとできない仕事だから。それがある世代から、ティン・パン・アレーをはじめとしたロック世代に入れ替わる。
佐瀬 いや、もう竜崎さんなんかバンバン使ってたよ。その端境期かな。『ポンキッキ』の初期はジャズとロックが混じってた。基本的にインペグ屋さんが集めてくるから、こっちも偉そうなこと言える立場じゃなかったし。藤家虹二さん、越部信義さんの名残りなんじゃないかな。「ホネホネ・ロック」のときは、最初からギターはロック系の人でってお願いしたんだけど、サイドメンがジャズ系の人だからさ。高中(正義)さんも「グルーヴ合わねえなあ」って言ってたよ(笑)。
ーー「宵越しの金を持たない」なんてジャズ界の矜持があって、とっぱらい(即金)もらって夜の酒場に消えていくみたいな。気難しかったり、ロックやポップスをバカにしてた人も多かったと聞きますね。
佐瀬 ロックの人はすごく一生懸命やってくれるからね。水谷さんなんかは一日5件も6件も掛け持ちしててさ。そういう人は引っ張りだこだった。
ーー「ホネホネ・ロック」のファズやワウワウもあれ、ギタリスト(高中正義)の私物だったそうですし。譜面は大丈夫でしたか?
佐瀬 バッチリだったよ。スタジオミュージシャンは基本、初見で譜面は読めること。あとは「ここ埋めて」でお願いできることかな。「パタパタママ」は、水谷さんにここ埋めてってお願いした。
ーーあの有名なイントロ?
佐瀬 いや、あれは書き譜。歌中の合いの手とかのフレーズは水谷さん。
ーー「たいやきくん」でガース・ハドソン(ザ・バンド)みたく、フェンダー・ローズにレスリーかけて弾いてたというのはハネケン?
佐瀬 じゃない。栗林(稔)さんかな。

子門真人「ホネホネ・ロック」(キャニオン)

虫プロ(虫プロダクション)……手塚治虫がアニメーション制作会社として61年に設立。日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』(63~66年)をはじめ、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』などの手塚原作アニメ、『あしたのジョー』、『ムーミン』などをヒットさせた。

ボーダーライン……ミュージシャンを手配するインペグ業界の老舗。70年代より『ひらけ!ポンキッキ』のレコーディングで、スタジオプレーヤーのコーディネーションを務めた。後に原盤制作に進出し、アニメ『マクロスF』、『∀ガンダム』、『創聖のアクエリオン』などは同社の音楽プロデュース。

MAスタジオ……マルチ・オーディオ(MA)用スタジオ。レコーディングスタジオにビデオモニターを設置して、映像との同期録音が可能なスタジオは当時は珍しかった。映像観ながら録音を行う「アフレコ録音」などで知られる、アオイスタジオ、アバコ、整音スタジオなどが有名。

(4)

ーー『ポンキッキ』のシンガーについて聞きます。なぎら健壱、生田敬太郎、とみたいちろう(MOJO)というエレック関係の人のもう一方で、NHK『ステージ101』のメンバーも多いですよね。
佐瀬 書籍(『昭和のテレビ童謡クロニクル』)では小島豊美(キャニオンのディレクター)さんって書かれてたけど、たぶんフジポニー(『ポンキッキ』初期の制作会社。日本テレワークの母体)の人の紹介だったと思うんだよ。
ーーやはり歌唱が技巧的に優れていたから?
佐瀬 安定感があったね。譜面を初見で見て歌えるし。エレックの人にお願いするときは、前もって音源渡してたんだけど。
ーー「およげ!たいやきくん」のヒット以降は、高田ひろお×佐瀬寿一×子門真人の不動のトリオが、次々と続編をリリースします。
佐瀬 あれだけ売れると期待はされるよね(「たいやきくん」売上累計は460万枚)。
ーーディレクターの小島さんがキャニオンを退社されて、フジパシフィック音楽出版が制作主体になった後も、「こよみをめくって汽車がゆく」でまた、子門さんと組んでいますよね。
佐瀬 フジパのディレクターは岩崎淳さんでした。ほかにも子門さんとは、東芝EMIでもいっしょに企画モノやってる(『うたう絵本~こどもにおくるメルヘンの世界』/77年)。あれは作詞家の藤公之介さんの企画で、そのうち4曲ぐらい書いたのかな(「赤ちゃんはどこから」、「ともだち10ぴき」、「みんなでうたおう」ほか)。
ーーのこいのこさん、藤本房子さんは、CM音楽の世界ではすでに有名でしたね。『ポンキッキ』以前から。
佐瀬 のこさんは「オノデンボーヤ」で知ってたから、「パタパタママ」のときはあの感じでとお願いした。藤本さんもコマーシャルけっこうやってたでしょ。以前から、僕もスタジオでいっしょになること多かったの。江崎グリコのCMやったときは彼女が歌ってる。代理店か音プロ(音楽制作会社)が連れてきたんだと思うけど。

子門真人『うたう絵本』(東芝EMI)

ーーその後、山口百恵「パールカラーにゆれて」、「赤い衝撃」、キャンディーズ「暑中御見舞い申しあげます」などのヒットを連発して、歌謡曲作家として一時代を築かれます。それと入れ替わりに『ポンキッキ』では、茅蔵人(かやくらんど)という名前を使い始めますよね。
佐瀬 僕の中で歌謡曲と線引きしたいなと、対ユーザー的に。子供向けにはしばらく、佐瀬って名前使うのやめようと思ってたんですね、ほんの一時期だけだけど。
ーー畑中葉子「後から前から」など、佐瀬さんは大人の歌も作ってましたから。茅蔵人名義の第1作が「おふろのかぞえうた」でした。
佐瀬 あれはシンセサイザーだけでやってるからね。音響ハウスの何スタかを一日ロックアウトして録った。プログラマーの浦田恵司さんに打ち込んでもらって、エンジニアと僕の3人で全部やってる。ドラムはマニュアルで重ねていったんだと思うけど。
ーー浦田さんはユーミン、中島みゆきで有名なプログラマーの先駆で、最近は菅野よう子作品の常連。「たいやきくん」時代からシンセサイザーを使ってたそうですが、あのころも浦田さんですか?
佐瀬 いや、あのときはアープ・オデッセイを持ってる人がいたの。その人がプレーヤーで来たんで弾いてもらった。
ーー74、75年というとかなり早い。冨田勲さんのシンセサイザー第1作『月の光』が74年ですからね。ブランニューなものにはいち早く飛びつく性分だったと。
佐瀬 それが僕の特徴かもしれないね。
ーーいち早くディスコにアプローチしてましたし。「ハッスルばあちゃん」なども、ヴァン・マッコイのノリでしたしね。
佐瀬 フィラデルフィアソウルとか大好きだったから。そういった実験をやれる場所が『ポンキッキ』だったのね。バジェット内で収めてくれれば、何でもアリだったから。
ーーあの番組は、長谷川龍さんのスポットの選曲も、ビートルズやピンク・フロイドかけたりしてましたし。
佐瀬 すごく刺激を受けたよ。「デイ・トリッパー」のイントロ使うとか。ここまでアリなのかと。
ーー「おふろのかぞえうた」で突如テクノポップに接近するのも、外的刺激があったんでしょうか?
佐瀬 ジョルジオ・モロダー全盛期だったからね。僕もやりたいなと思ってたの。全部打ち込みで。
ーー80年というと、YMOブームの渦中でもあって。
佐瀬 イエロー・マジック・オーケストラにあやかってビックリ・エレクトリック・カンパニーにしたぐらいだから。あとエレクトリック・ライト・オーケストラも大好き。僕、ジェフ・リン大好きなのね。ストリングスとロックを融合させて。
ーーそこにシンセサイザーを導入したのも、ジェフ・リンの力業でしたね。
佐瀬 トッド・ラングレンも好きだった。トッド・ラングレンもジェフ・リンもビートルズ・フリークなんだよね。あとはトレヴァー・ホーンかな。
ーーザ・バグルズ「ラジオスターの悲劇」で有名な。
佐瀬 「おふろのかぞえうた」でラジオ・ヴォイスで歌ってるのは、あれの影響だから。
ーーまだ電子楽器が高価だった時代に、ご自身でもシンセサイザーを購入されていますよね。
佐瀬 ミニ・モーグとプロフェット5は持ってた。スタジオにも一応持って行ってたな。(音色作りは)浦田さん呼んでやってもらうか、自分でできる範囲の音作りだったら自分でやっちゃう。
ーー間奏の「ピッピッピッ」というフレーズは、リップス「ファンキー・タウン」みたいですね。
佐瀬 あれは浦田さんに、こんな音作ってくれるってお願いしたの。笛系で、デュレーション(音長)のすごく短い、スタッカートっぽい音でって。

ビックリ・エレクトリック・カンパニー「おふろのかぞえうた」(キャニオン)

ーー茅蔵人というペンネームは、「火薬+ランド」の合成語。爆発するような危なっかしい感じも、込めたわけですよね。
佐瀬 こじつけでしかないんだけど。
ーー歌謡曲を書くときのノーブルな感じと趣を変えた、すごくパンキッシュな。
佐瀬 それぐらいの願望を込めた曲をやるときはね。
ーーパワーズ「領収書」、『無敵ロボトライダーG7』も茅蔵人。だから、子供の歌&ノベルティ用のペンネームというか。
佐瀬 「領収書」は、私文書偽造の歌だから(笑)。これはちょっと本名出したくないなと。それだけサラリーマンは辛いよって歌なんだけどさ。
ーー『無敵ロボトライダーG7』(80年/名古屋テレビ)はなにしろ、『機動戦士ガンダム』(79年)の次の番組。
佐瀬 これは作詞が伊藤アキラ先生。たぶん推薦があったんだと思う。詞が先にできてたから。最初に持って行った主題歌のデモは全編マイナーキー(短調)だったの。プロデューサーから明るい曲にってリクエストがあって、サビからメジャー(長調)に転調したら、よりダイナミックな感じになった。あれはプロデューサーに感謝だね。
ーーアニメ仕事は初めてですか?
佐瀬 そう。それも、中の音楽(BGM)もいっしょにやってくれって話だったの。劇伴なんてバジェットないから。グロスでやってくれないかと。自分でもトライしてみたかったし。
ーー放送当時リリースされたのは主題歌のシングルのみですが、本編のBGM聞いてビックリ。これ、ビックリ・エレクトリック・カンパニーの続編じゃないですか(笑)。
佐瀬 そうそう。プログラマーは浦田恵司さんだから。プロフェット10、オーバーハイム、ポリ・モーグとか使ってる。ヴォコーダーやシンセベースを多用してるよね。トレヴァー・ホーンに影響受けてたころだから。
ーーこっちは打ち込みじゃなく生ですが、ストリングスやブラスも入った豪華版で。
佐瀬 ブラスはこの音圧だと8ブラス(トランペット=4、トロンボーン=4)かな。ストリングスは中音域が充実してるんで、6:4:4:2(第一ヴァイオリン:第二ヴァイオリン:ヴィオラ:チェロ)の編成だと思う。
ーーラヴコールを受けて、放送後に異例のサントラアルバム盤が発売されました(『無敵ロボ トライダーG7 トライダー大百科』、『無敵ロボ トライダーG7 BGM集』)。
佐瀬 そうそう。シングルしか出てなかったから。あれは視聴率はよかったの?
ーーふむむ。『機動戦士ガンダム』がスポンサー都合で急遽打ち切りになったんで、急場しのぎ的に作った番組ではなかったかと。
佐瀬 ちょっと前に、妙に入金が多いなあと思ったら、サントラ盤がCDで復刻されてたんだよね(笑)。

『無敵ロボトライダーG7 サウンドトラック』(キングレコード)

『ステージ101』……70~74年までNHKで放送された音楽番組。中村八大、和田昭冶(元デューク・エイセス)らが音楽監督を務め、先端の海外楽曲を紹介する番組として人気を博した。出演者で組織したグループ「ヤング101」からは、上條恒彦、樋口康雄、惣領泰則、河内広明(芹澤廣明)、串田アキラらを輩出。

フジパシフィック音楽出版
……85年に、ニッポン放送系のパシフィック音楽出版とフジテレビ系のフジ音楽出版が合併してできた音楽出版社。版権業務のみならず同社ディレクターが原盤制作も行い、80年代より『ひらけ!ポンキッキ』の音楽制作を開始。2015年より屋号をフジパシフィックミュージックに改名。

音響ハウス……マガジンハウスの前身、平凡商事が73年に設立したレコーディングスタジオ。コマーシャル用途のほか、商業レコーディングでは松任谷由実、山下達郎、坂本龍一などの数々の名作を世に生み出した。小野誠彦、伊東俊郎など、現在も活躍する同スタジオ出身のエンジニアは多い。

浦田恵司……松武秀樹と並ぶシンセサイザー・プログラマーの草分け。輸入楽器およびPAレンタルのレオミュージック、RMIを経て独立し、EMU設立。自身のグループ、浦田恵司プロジェクトでもインストゥルメンタル作品をリリース。

『無敵ロボトライダーG7』……80~81年に名古屋テレビをキー局に、テレビ朝日系列でオンエアされた日本サンライズ(現・サンライズ)制作のロボットアニメ。放送終了後に発売された2枚のサウンドトラック盤をまとめたCDが、2005年に発売された。

(了)

佐瀬寿一(させじゅいち)プロフィール

作曲家/編曲家
1949年、千葉県生まれ。日本大学芸術学部卒業。バンド活動を経て作家に転身。75年に、ずうとるび「みかん色の恋」で作編曲家デビュー。「およげ!たいやきくん」、「パタパタママ」、「ホネホネ・ロック」など『ポンキッキ』初期代表作を手掛け、「たいやきくん」は日本レコードセールス大賞受賞。累計460万枚の大ヒットとなり、ギネス・ワールド・レコーズから「日本の最も売れたシングル・レコード」に認定された。ほか、山口百恵「パールカラーにゆれて」(77年)がレコード大賞作曲賞ノミネート、松崎しげる「ワンダフル・モーメント」(80年)が東京音楽祭銀賞、新沼謙治「幸せの坂道」(89年)が古賀賞受賞。2009年、『みんなのうた』の「かつおぶしだよ人生は」でアンクル☆させの名前で歌手デビュー。さらに、新しい子供の歌の創作・普及に、また歌謡曲作りに力を入れている。

代表作:

(『ひらけ!ポンキッキ』)
子門真人「およげ!たいやきくん」(ギネス・ワールド・レコーズ「日本の最も売れたシングル・レコード」認定)「ホネホネ・ロック」
なぎら健壱「いっぽんでもニンジン」「ママのみぎてはまほうのて」
のこいのこ「パタパタママ」「ハッスルばあちゃん」
ビックリ・エレクトリック・カンパニー「おふろのかぞえうた」(茅蔵人名義)

(歌謡曲)
山口百恵「赤い衝撃」、「パールカラーにゆれて」
キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」
畑中葉子「後から前から」
ずうとるび「みかん色の恋」
松崎しげる「ワンダフル・モーメント」※『噂の刑事トミーとマツ』主題歌(東京音楽祭銀賞)
たいらいさお「トライダーG7のテーマ」(茅蔵人名義/『無敵ロボトライダーG7』主題歌)
ガッツ石松&ポカスカジャン「OK食堂」(『みんなのうた』)

(コマーシャルソング)
ホテル三日月「ゆったり・たっぷり・のんびり」
ヤマト運輸「宅急便 引っ越しらくらくパック」
P&G 「薬用石鹸ミューズ」
上島珈琲「UCC缶コーヒー」
参天製薬「サンテドゥ」
ロッテ「のど飴」(歌:大貫妙子)
森永製菓「小枝」「パックンチョ」
三菱自動車「ランサー」
フォルクスワーゲンゴルフ「パサートバリアート」
日野自動車「ライジング・レンジャー」
花王「ソフィーナ」
ハウス食品「ハウスグラタン」「ハウスシチュー」

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