大野松雄の世界(再録)

イントロダクション 

 未知の惑星の生態系をも見事に描き出す最新CG技術。1枚の写真から『ALWAYS 三丁目の夕日』のような、在りし日の昭和の下町風情を再現することさえ可能になった。しかし、観る者をスクリーンの中の物語に引き込む最大のファクターは、たった一つの「流行歌」だったりする。精巧に再現された長屋のCGのテクスチャーより、自動車がまばらに走っていた当時の街の静けさのほうが、より雄弁に昭和という時代を映し出す。

 音は世界を支配する。その最たるものがアニメーションだ。同時録音された音が素材となる実写映画と違い、真っ白なキャンバスに音付けをして、ゼロからその空間を組み立てていく。まだモノクロで受像管が不鮮明だったテレビ放送黎明期。今日のSFXクリエイターのような役割を果たしたのが音響効果だった。国産テレビアニメ第1号『鉄腕アトム』(63〜66年)で、アトムが活躍する未来都市を音でデザインしたのが大野松雄だ。

 オシレーターとテープ・レコーダーを用いる、50年代に生まれたばかりの電子音楽のテクニックを用い、手塚治虫の原作には描かれていない<未来の都市の音>を創造した。しかし品行方正ではなく、暴走族のクラクションが「エリーゼのために」を奏でるようなアナーキーさ。合金製のアトムの足音に、大野はプラスチック素材のような「ピョコピョコ」という音を当てた。また、原作の「バキューン!」「ギョロギョロ」といった擬態語を、自らの声を素材にしたオーラルサウンドという手法によってサウンド化し、アニメにナンセンス漫画のノリを持ち込んだ。そんな大野のテレビ界のキャリアは、TBS開局時の国産SFドラマ『惑星への招待』(55年)に始まる。それは、ハリウッドで初めて本格的に電子音楽が使われた映画『禁断の惑星』、米国初SFテレビシリーズ『ミステリー・ゾーン』に先駆けるものだった。

 大野が第一歩を記した日本アニメの音響の歴史。しかし、その後『ルパン三世』(第1シリーズ)にクレジットを残したのみで、表舞台から姿を消してしまう。柏原満(『宇宙戦艦ヤマト』)、松田昭彦(『機動戦士ガンダム』)ら、音響マンの口から語られる大野の伝説。レイ・ハラカミら第一線で活躍する孫世代のクリエイターにも、大野松雄の影響を公言する者は少なくない

 菊地成孔、相対性理論などのPV、曽我部恵一のコンサート映像を手掛け、音楽にも造詣が深いことで知られる映画監督・冨永昌敬は、当時を知る者の証言を手掛かりに、大野の消息を辿るために西日本へと足を向けた。

 音響効果にパードン木村、ナレーターに野宮真貴を交え、50年に及ぶ映像音響の歴史を辿る本邦初のドキュメンタリー。貴重なフィルム素材、秘蔵音源、2009年に実現したコンサートのリハーサル風景なども交え、時代背景や大野の人生哲学などをスクリーンに映し出す。

ストーリー

 「映画における音響とは何か?」 観客が劇場で耳にしている音は、実際の音ではない。セリフと音楽、情景音によって組み立てられるサウンドトラックも、映像と同じく演出されたものだ。そして音響は、映像の付属物ではない。エコーの広がりひとつで舞台は四畳半からコンサートホールにまで変幻自在に変えられる——冒頭に登場する音響監督の第一人者・柴崎憲治は、自らのサウンド・ウィザードとしての役割を説明する。

 音響の歴史は、フィルム以前の舞台演劇から始まる。歌舞伎の“鳴り物”のような効果音名人は、劇場や撮影スタジオには欠かせない存在だった。黎明期のテレビ界を支えた名匠も多い。「鳥笛」「カエルの鳴き声」を当時の手法で再現してくれるのは、初期NHKのドラマで活躍した大和定次。彼は同期入局しながら、すぐにNHKを飛び出した大野松雄という人物について振り返る。

「お兄さんって感じでね。(ところが)1年か1年半ぐらいで、いつのまにかいなくなっちゃったんですね」

 それがこの映画の主人公、大野松雄である。彼は文学座の研究生としてこの世界に飛び込んだ。舞台美術などを担当していたが、音のセンスを見込まれて音響担当に。「波ざる」などの伝統的な舞台効果を体験したのち、大和らと同時期にNHK効果部に入局する。そこで彼は、当時ドイツで生まれたばかりのシュトックハウゼンの電子音楽の存在を知った。オシレーターとテープ・レコーダーを使った、この新しい芸術に感銘を受けて、わずか1年で退局しフリーランスの音響技師に。いくつかの実験映画に関わった後、ひょんなきっかけで63年に始まったアニメ『鉄腕アトム』の音響効果に抜擢される。

「手塚治虫さんが局に売り込んできた『鉄腕アトム』の企画を見て、これは普通の漫画じゃないなと。パッと閃いたのが、大野君のやっていた電子音楽だったんです」

 そう語るのは、大野の起用を発案した、文学座時代の先輩だったフジテレビ映画部の竹内一喜だ。

「大野君が手掛けた、アトム、御茶ノ水博士、ウランちゃん……みんな音が人格を持っていた。“人格を持つ音”というのは、日本ではこれまでなかったと思うんです」

 21世紀を舞台にした『鉄腕アトム』に、竹内は最良のサウンド・クリエイターを引き合わせたのだ。同年『鉄人28号』『エイトマン』が他局でスタートしているが、僕らはその印象を『鉄腕アトム』ほど強烈に覚えていない。それほど大野のサウンドは個性的だった。

 大野が影響を受けたという電子音楽の歴史は、50年代にドイツの放送局で産声をあげた。日本でも54年よりNHK局内で実験が開始され、翌年、諸井誠・黛敏郎「7のヴァリエーション」が本格第一作として生まれた。しかし、アカデミズムの世界で語られる電子音楽とは、厳格なスコア(数値、グラフなど)を元にした難解なもの。同時代にフランスで生まれた、感覚を重んずるミュージック・コンクレートのような即興性を認めなかった。大野の電子音楽もまた、スコアなど無用。彼が影響を受けた、モダン・ジャズ、フリー・ジャズのフィーリングを持ち込んだ、即興的でユーモラスものだった。

 無論、彼は作曲家ではない。従来、「効果マン」と呼ばれる世界から現れた。しかし、そう呼ばれることを嫌い、自らは「音響デザイナー」と名乗った。当時「効果の大野さん」と呼んで叱られたエピソードを披露するのは、グループタック代表の田代敦巳。ウォルター・マーチなどの存在で知られるハリウッドの音響監督のクレジットを、日本で初めて肩書きに用いたことで知られる田代も、『鉄腕アトム』の制作助手時代に、大野から多大な影響を受けた一人だ。

 「音による演出家」を自任していた大野は、作品の世界観を巡って、原作者である手塚治虫ともやり合ったほど。「私が演出家だ」という手塚に「素人は黙ってろ」と言い返したという痛快な逸話も。そんな仕事ぶりが評価されるのは、翌64年『ASTRO BOY』としてNBCネットワークで放映され、全米の子供たちにアトムに大歓待を受けてからだろう。国産テレビアニメ第1号ゆえ、技術的に拙く「パラパラ漫画並み」と揶揄された『鉄腕アトム』に、ディズニーの国民が熱狂したのだ。変幻自在のサウンドで、あたかもアトムがフルアニメのように動いてるよう錯覚させた、海外進出で果たした大野の貢献は大きかった。

 大野の存在は、テックス・エイヴリーの低予算アニメーションのような型破りなものだった。ワーナー時代、ドアの開閉にコルト45口径の発射音を用いたり、落下場面にコンクリートの衝撃音などを当てる演出で、ディズニー・ギャグを震え上がらせたエイヴリー。後にMGMに移り、『トムとジェリー』に参加。同作にNYの電子音楽家・トッド・ドックステイダーが効果音技師で手を貸していた構図は、『鉄腕アトム』で若き日の小杉武久が、大野のアシスタントを務めていたエピソードを思わせる。また武満徹、一柳慧らの電子音楽をサントラに起用した、海外でも知られる実験アニメ作家・久里洋二のようなモダンなクリエイターと共鳴するものがあった。

 小杉と同じくアシスタントを務めた高橋厳は「大野はテレビアニメの枠組みを超えた存在だった」と振り返る。生涯、クレジットを残したテレビアニメは『鉄腕アトム』、『ルパン三世』(第1シリーズ)の2作のみ。綜合社という会社を立ち上げてからは、万博のパビリオン音楽などが大野の表現の場となり、「この世ならざる音」を創作テーマに、立体音響などに取り組んでいく。

 そんな大野が80年代、突然、スタッフの元から消息を絶つ。大野はいったい何処へ? 音楽を用いたユニークな映像作品で知られる映画監督・冨永昌敬は、大野を辿って京都、滋賀へ。<音響デザイナー、大野松雄のヒストリー第二章>。観客はこのドキュメンタリーで、表舞台から消えた後の大野の足跡を知ることとなる。

(キーワード解説)

■オシレーター
発振器のこと。電気から「ピー」というシンプルなサイン波を発生させる装置。放送局が検波用に用いていたこれを、前衛作曲家らが楽器として使い始めたことから、50年代にドイツで電子音楽の歴史がスタートする。

■『惑星への招待』
KRテレビ(現・TBS)の開局記念番組として、56年に放送された初の国産SFドラマ“宇宙物語”の第3作。まだビデオテープのない生放送時代の作品に、毎回、音楽の代わりに劇中の電子音を大野が即興で音付けしていた。

■『禁断の惑星』
56年のアメリカ初の本格SF映画。アシモフ『われはロボット』の影響下にあるキャラクター、ロビーが人気を博した。オーケストラの代わりに、ルイス&ベベ・バロンによる電子音響を、ハリウッドで初めて本格的に使用。

■『ミステリー・ゾーン』
59〜64年にアメリカで放送されたSFテレビシリーズ。原題は「The Twilight Zone」。脚本家のロッド・サーリングが毎回ホスト役を務めた1話完結もので、バーナード・ハーマンらが電子音を使ったスコアを書き下した。

■「波ざる」
長方形のザルの中に、小豆、大豆、米などを入れて「ザザザーッ」という波の音を表現する舞台用の音響装置。その振り方で、さまざまな波を描き分ける職人芸が決め手。西洋にもオーシャン・ドラムという類似楽器がある。

■電子音楽
検波用のオシレーターとテープ・レコーダーを使った新しい音楽表現として、50年代初頭にドイツで誕生。初期は難解なメロディーの作品が多いのが特徴。楽団演奏ではなく、テープ・コンサートの形で作品が発表された。

■諸井誠・黛敏郎
ともに戦後の日本の現代音楽シーンの開拓者。NHK音楽部長だった諸井は、ドイツの電子音楽のノウハウを日本に紹介。NHKに電子音楽スタジオを作った。55年の黛による習作を経て、翌56年に2人による第1作が完成。

■ミュージック・コンクレート
40年代にフランスで誕生した、テープ・レコーダーを使った即興による作曲法。理論を重んずるゲルマン民族的なドイツの電子音楽と違い、シュールレアリズムを背景にした、ラテン民族的な感性による芸術を目指した。

■ウォルター・マーチ
数々のノミネートを経て、『地獄の黙示録』(79年)でアカデミー録音賞を受賞したアメリカの音響監督。フランシス・コッポラ作品の常連として芸術的音響面を支え、同作品で初めて音響デザインのクレジットを用いた。

■テックス・エイヴリー
ディズニーと対極にある、スラップスティックな描写で戦前、戦後の米アニメ界に革命を起こした、反逆のアニメーター。ワーナー、MGM時代に、バックス・バニー、ダフィー・ダック、トム&ジェリーなどの作品を監督。

■トッド・ドックステイダー
アメリカの電子音楽家。映画の編集、効果音技師を経たのち、エドガー・ヴァレーズの影響を受け、前衛音楽の創作を開始。ニューヨーク修行時代に、短編アニメーションのサウンドトラックを手掛けていた逸話は有名。

■小杉武久
作曲家・ヴァイオリニスト。東京芸大在学中より前衛音楽に取り組み、オノ・ヨーコで有名な集団フルクサスとも交流。後にタージ・マハル旅行団を結成する。ケージの後を受け、マース・カニングハム舞踏団の音楽監督に。

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