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漫画とうごめき#15

汐浦凪乃さんの漫画作品『ミナモノカミ』をテーマに、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『ミナモノカミ』をまだ読まれていない方は、まず先に『ミナモノカミ』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。


電脳マヴォ:多摩美漫画文化論 優秀作品 ミナモノカミ(2022前期優秀作品)/汐浦凪乃


あらすじ

漫画の中身としては、2人の女の子を中心としたお話なんですよね。
1人は、ずっと闘病生活で入院していた女の子で、千代原さんという子ですね。
で、もう1人は千代原さんが入院していた間に転校してきた女の子、蓮美水面(はすみみなも)さん。
この蓮美水面さん、絵に書いたようなできた女の子で、サラサラのロングヘアーの美人、生徒会選挙でも圧勝したり、品がよく物腰も柔らかい人間性で、クラスでも人気者というハイスペックぶりです。

で、千代原さんが入院生活を終え、久しぶりに学校へ登校するところから始まります。 千代原さんとの再会に友達は喜んでくれるんですが、学校の中では、それ以上に衝撃的なことが起きてるんですね。

その日、もう1人の女の子、蓮美さんが、いきなりスキンヘッドになって学校にくるんですね。 で、学校が騒然となると。
しかも別に病気とかの事情でもなく、ただ自分がかっこいいと思ってスキンヘッドにしたんだ、と言います。

一方、千代原さんは、実は病気で髪が抜けてしまっていてかつらをかぶって登校してたんですね。
で、最初てっきり蓮美さんも同じ境遇なんだと思って話しかけるわけなんですけど「いや、ただかっこいいと思ったから、それで自らこうした」みたいなことを言われちゃうんですよね。

それで、千代原さんは傷ついちゃうと。 同じではなかったんだ、と。

でまあ、そんな感じで蓮美さんがスキンヘッドになったことで、周りの生徒も「やばいやばい」てなるんですね。
で、先生からはめっちゃ怒られるんですよね。
ただ、蓮美さんは「校則には違反してないし、怒るのは自分達が主観的に「変だ」と思ったからでしょう?」「何を言われたとしても後悔はしませんよ。私はルールの範疇で好きな格好をするだけです」と、堂々と言い返すんですよね。

千代原さんはそれを見て「かっこいい」てなるんですけど、他の学生たちは「やっぱり変だろ」「やばいだろ」「美的感覚おかしいだろ」と、ヒソヒソ言われちゃうわけなんですよね。
それに千代原さんは怒りを覚えるんですけど、「理解されない方がいるのも事実」「こういうものはご縁です、一緒にいてくれる方には感謝しなければいけませんね」と、蓮美さんはここでも菩薩のような態度を示すんですね。

んで、千代原さんは「自分も蓮美さんのように強くなりたい、こんな偽物に執着しないで済むように」と自分のかつらについて話すんですけど、 蓮美さんは「私と同じになる必要はない」 「かつらをかぶるのも、自分にとってできるだけ理想の姿になろうと、努力していように見える」「私は今のあなたを素敵だと思う」と、めちゃくちゃ達観した態度で答えるわけです。
で、千代原さんは「はーっ」てなる。

というのが、ミナモノカミの全体的なお話ですね。

分かり得ないことへのリテラシー

蓮美さんの達観したキャラクターと千代原さんの葛藤の対比が面白いな、と感じたのですが、 僕はミナモノカミを読んで「分かり得ないことへのリテラシー」って大事だな、と思ったんですね。

分かり得ないことへのリテラシーという言葉は、 僕が勝手に言ってる言葉なんですが、 多様性などについて考える時に他者のことを「分かる」ことも大事だけど、それ以上に「分かり得ないことがある」という態度が大事なんじゃないか、と思って言ってる言葉です。

最近は、時代の潮流もあって多様性をテーマにした作品というのは、かなり増えていってるわけですね。
ただ多くの場合、お互いに分かり合えたり、多数派の人が少数派の人を受け入れるようになってめでたしめでたし、みたいなストーリーが多いようにも感じます。
それはそれでいいんですけど、見方によっては、マジョリティ側が単に自分達の世界にマイノリティを包摂して気持ち良くなってるだけ、にも思えちゃうんですよね。
で、その包摂というのは「理解する」「わかる」「同じになる」みたいなところが最終的にあるように思うわけで、 将来的には、また違う抑圧が生まれるんじゃないか、というような何とも言えない違和感を覚えたりもしてるんですよね。

ようは「みんな違ってみんないい」と言いながら、最終的には「私たちと同じになろう」としているように見えるんですよね。
それが何か違和感を感じる、というかですね、微妙な感覚なんですけどね。
で、その「同じになる」というのは、相手のことを理解できる、分かり合える、という考えと繋がっているように思うんですよね。
感覚的にですけど。

ミナモノカミはそれで考えると、そういう「同じになる」や、「分かり合える」とは少し異なるように感じます。
蓮美さんは「私と同じになる必要はない」と千代原さんにいいます。
そして共にいることに感謝はしつつも、お互いにわかり合おう、理解しよう、としてるわけでもないように見えるんですよね。

実際に、2人は分かり合えてるわけではなく、お互いに興味を持って一緒にいるだけなんですよね。
一見すると何も解決してないように見えるんですけど、この姿勢が分かり得ないことへのリテラシーを考えるヒントになってる、と思うんですよね。

グローカル

で、ここら辺の多様性に関する話で思い出すのが、Chim↑Pomの卯城竜太さんが最近出した「芸術活動論」の中でのお話ですね。 その中に「グローカル」についての話があるんですよね。

グローカルというのは、グローバルとローカルが合わさった造語ですけど、「地方と世界がつながる」みたいな意味合いですかね。

で、この本の中では、グローカルは「理解できる」を前提としたものだ、と語られてるように感じました。
近年のグローバリズムによって、世界中の都市が均一化していったんだと。 どこにいっても、マックなどのグローバルチェーン店舗があって、スタジアムや芸術祭があって、インフラが整えられ、地方からエネルギーが供給されて、街中にはUberやAmazonの流通網が走る、みたいな。そして、ホームレスは排除されると。
で、ローカルである地方も、駅前は同じような景色になって画一化されているし、都市へのエネルギー供給のため開発されていると。
これは、中央集権的な政治経済と新自由主義的な再開発によって、おきてることですけど、 その一方で、ローカルには独自の文化や風土は残っている部分もある。
そしてそれは「地域色」という名で、観光や作品となると。
で、中央集権の地図を逆流するように、再び中央に流通されているんだとあります。

ローカルとグローバルは、今やそんな相互関係において対になっている。
そしてグローカルなどと呼ばれる世界観は、地方と中央がフラットに繋がっているというよりも、地方が中央へと向かうトーナメントをしているような構造を世界に作り上げている、と語られてるんですね。

つまり標準化としてのグローバル、独自性としてのローカルも、全てその新自由主義的な資本主義の枠組みでは、結局グローバルに包摂されていくわけです。
「みんな違ってみんないい」と言いながら、ローカルはトーナメント表に組み込まれ、グローバルという名の均一化されたフォーマットでまとめられる。みたいな。

例えば、国際的なアートの展覧会では多様性を念押しされるかのように、各国のアーティスがセレクトされ、(TOKYO)と名前の後ろにカッコ書きされる、ということがあるらしいんですね。
ただ実際は、そのアーティストが活動しているのは欧米で、ただ出身地がカッコがきされているだけ、ということが結構あるそうなんですね。
これが国内での展示会であれば、ほとんどのアーティストが東京に住んでるのに、出身地の県が名前の後にかっこがきされるという状況ですね。

もちろん、それが一概に悪いことではないし、経済的な戦略としては正しい。
しかしそうやってグローカルに包摂されていくあり方には違和感があるし、 その結果、本来は他の地域では分かり得ない特性があるはずのローカルが、一つのフォーマットで理解可能なものとして、表現されているんだと。

多様性や開かれた世界を謳いながらも、内実は組織の論理や社会常識みたいなものに縛られ偽善化していく流れ。

グローバルな中央に都合の良いローカルはグローカル化し、そこからこぼれ落ちるローカルは排除される。
中央へと包摂され、同じになろう、理解されようする。
それはつまり、いつまでたっても正解に依存した状態で、集権的な支配はなくならない、ということだと思うわけです。
そして、そういった人が全てを理解して、コントロールできる、という人間中心主義的な思想で進んでいった末に、パンデミックや環境問題にぶち当たっている今の現実をみると、どこかこの支配構造に限界を感じたりもするわけです。

ちょっと視点が偏りすぎてるのかもしれないですが、どうなんですかね。

そういうのもあって「包摂して取り込んでいく多様性のあり方ってどうなんだ?」と思うわけなんですよね。
もちろん、無差別に争いやレイシズムが横行するのは論外ですが、 一つにまとまろうとする。ではない多様性のあり方って、他にあるんじゃないの?と思うんですよね。

半分姉弟

また、ここに関して、さらに考えさせられる漫画があるんですけど「半分姉弟」という漫画ですね。 日本でハーフとして生まれた人の思いや苦悩をリアルに描いている作品で、トーチwebで連載されてます。

その中で、主人公がハーフであることで受ける日々の不快な体験を、ハーフではない友達が「わかる、私も〇〇でー」みたいに、一方的に共感してくることで、より心の距離を感じ孤独を感じる、という描写があるんですね。

マジョリティ、包摂する側は、自然と自分達にとって都合の良いマイノリティを受け入れていって、そこから溢れる存在は見えていない。
また、自分の視点では「分かり得ないことがある」ということをわかっていない。ということが描かれてます。

もちろんわかり合おうとする姿勢は大事なんですけど、 その一方で、この価値観が常態化していくと「みんなと分かりあわなくてはいけない」という価値観になる。
それは息苦しさも、生み出していくわけなんですね。

そして現代のように、分かり合えること、理解をベースとした世界で育まれた価値観は、分かり得ないことへのリテラシーを失わせていくのかもしれない、と思うんですよね。

この半分姉弟には考えさせられることが多くあるので、また改めて自分の中で読み解いて、紹介したいと思います。

で、ミナモノカミにおいては、蓮美さんの行動や思考はみんなには理解されていない。
しかし迎合する必要はない、私はルールの範囲で好きなように生きる、と蓮美さんは言い放つわけです。

この強さのある姿は、ひとつの理想像であるわけですが、その一方で人はそこまで強く生きられるわけではない。
そこらへんに千代原さんの葛藤がある。
しかし、蓮美さんと同じになる必要はない。 お互いに分かりあう必要はない、 いま共に存在していられればそれでいい。みたいな。

プラネタリー/ドメスティック

で、ここでまた卯城さんの活動芸術論に戻るわけなんですけど。
この本の中では理解可能が前提にある「グローカル」ではなく、「プラネタリー」という概念で考えることを提示されているんですね。

プラネタリーといったら、惑星ですね。
惑星社会みたいな視点で見ることで、分かり得ないと共に生きる発想が生まれてくるんだ、と語っているんですね。

それは次のような対比でグローバルと、プラネタリーの概念の違いを語られています。

”「グローバリズム」は、世界が理解可能だという前提に基づくコミュニケーションでもある。 政治、経済、文化、あらゆるところで「グローカル」な交流が生まれ、だからこそ英語という言語は翻訳し、理解可能という喜びの先に画一化をもたらした。 その相手が人間である以上、理解できるという期待は確かに捨て切って良いものではない。”

”「プラネタリー」といえば、交流する相手は人間以外の生命体、交信で言ったらシャーマニスティックな霊性やマグマの動向にまで及んでいる。 地震や噴火、ウイルスや細菌、微生物、動植物、ミソネタの野生米を育む水やマガモやガン・・・。 そこにはいつかきっと地球を光らしている太陽や月、神という概念まで含まれるようになろう。 想像すれば早い。 「こんにちは、あなたは誰ですか。私は神です。あなたたちがそう呼ぶ概念です」 ・・・なんてコミュニケーションはあり得ないだろう。 神も、微生物も、理解し難い。 「わかった」として、真に理解はしあえないのだ。”

イースト・プレス(出版) 卯城 竜太 (著) 活動芸術論より引用

プラネタリーとは、人だけではない射程で社会を見ること、ですかね。
また、マツタケの話が例に上がるんですけど、 マツタケは昔から食べられているのに、いまだに養殖できないしどこに生えるかの完全な予測ができない。
お互いに理解不能な領域が多いのだと紹介されてます。
共に単独で存立しているわけでもなく、無数の関係が間に複雑に絡み合っている。
そういった、よくわからないバランスの上で、調和は勝手に成り立っている。と語られているんですね。

たしかに、人以外の存在も含めて考えた場合、そこには分かり得ないことが前提になる社会像が浮かび上がるわけですね。

また、グローバルに対するローカルのように、プラネタリーに対する言葉も提示されています。
で、その言葉は「ドメスティック」なんだそうです。
ドメスティック、内側とか家の中とかの意味合いがありますね。
ドメスティックバイオレンスや、国内音楽のジャンルのことを、ドメスティックって言ったりするのが、パッと思いつきます。

で、このドメスティックというのは、情報化されない閉じられた理解し得ない要素が、意味に含まれているそうなんですね。

家の中のことは外からは分からないし、グローバル化以前はまだ地方も、外からは理解し得ない部分が大いにあったわけです。 それがドメスティックだと。

で、自然界の万物というのは、互いに理解し合えなくても自分を外に開きもしないし閉ざしもしない。しかし何故か通じているんだと。
で、そういったネットワークとして「プラネタリーとドメスティック」は、いつか今のグローバリズムのあり方を変えるんじゃないか、と言われているんですね。

人外も含む分かり得ない存在との社会が前提となるプラネタリー。
そして外側から見たら理解し得ないものがあるドメスティック。

この組み合わせが、現代の理解し合える世界観の限界、というのを乗り越える概念になるんだということですかね。

で、卯城さんは、プラネタリー/ドメスティックの関係やグローバル/ローカルの関係を、個と公という言葉で語られるんですね。
で、人という個は組織という公に存在し、組織という個は地域という公に存在する。
そして地域という個は国という公に存在し、その先にはアジアが、世界が、そして地球が、無限の宇宙へと、マクロに広がっていく。
で、逆に人という個をミクロに分解していけば器官や菌や細胞にいくわけです。
個としての人も分解すると、理解不能な個、菌や細胞が存在する公である、ということですね。

なので結局個というものを突き詰めると、それは公という概念と同義になるということで、逆も然りというわけです。

そして、それぞれのレイヤーにおいても生態系が形成されているんだ、と語られています。


理解不能な個がバラバラに動き続けており、その関係性で公が存在する。
そして、個が異なる個と出会い共にアクションを起こしたり、時に相手から毒を与えられ、それをきっかけに変異して繁栄したりするわけです。

で、そういった動きによって、公の存在を揺らし公自体が作り変えられていくんだと。

まとめ

今までのを振り返ると「分かり合えることが良いこと」という価値観が我々には浸透しているわけです。

その一方で、分かり合えてないことは愚かで劣っているように見える。
多様性の文脈においては、多様な存在のことをわかっていることが優れた人、という価値観になる。

しかし、それは本当に分かっているのだろうか。

そもそも分かり得ない部分というのが存在するのではなかろうか。
そう考えるなら、多様性を理解しているという価値観も、グローバル化における均一化された価値観でしかないのかもしれない。

では、何がいるのか。
それは分かり得ないことへのリテラシーなんだと。

分かり得ない存在同士の共存のあり方を考えること、なんだと思うんですよね。

お互いに分かり合えてると思っている仲間同士で、村的な社会を作るとかではなく、
分かり得ないもの同士の流動性のある環境で、閉じたり開いたりしながら生態系が循環し続けていくように、自らを変異させながら活動する。

それが結果的に、公を作り変えることになる。

なので、分かり得ないことのリテラシーをまとめると、
分かりあわなくてもいいし、争わなくてもいい。
相互に影響を受けることが、存在していることであり、
変異しながら、うごめくのみだ。
といったことだと思うんですね。

そういえばミナモノカミのラストでも、蓮美さんは元々ショートヘアがいいな、と思っていたんだけど、ある日見たお坊さんの姿に私がなるべきなのはこれだ、と感じて髪を剃ったらしいんですよね。
で、よくよく聞いてみると、そのお坊さんは千代原さんの友達のお兄ちゃんだったわけなんですよね。
なので、意図せずとも人は生態系の内や外の誰かに影響を与えられ、そして変異する。
そして変異した行動によって、学校社会のような公を揺るがす、という構図そのものが、この漫画の最後にみえてくるんですよね。

これもまた示唆深さを感じますね。

まあそういうわけで、今回はミナモノカミから多様性の議論、そして分かり得ないへのリテラシーについて話しました。


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