今週の出来事(9/19~9/24)
Random thoughts and head trip [Week. 133]
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今週の出来事を書いていきます。
今週の振り返り
うごめきとは、人間に代わる概念。
人だけではない自己認識/世界認識だ。
我々はうごめきであり、
相互に分かり得ない存在である。
分かり合わなくていいし、争わなくてもいい。
共に生きるとは、相互に影響を与え、変異し動きつづけることだ。
存在しているだけで相互に影響を与える。これが共存。
共存しているということは、存在を認められているということだ。
9月19日(月曜)
ヒュー、
共生と迎合の違いは?
9月20日(火曜)
分かり合わなくていいし、争わなくてもいい。
うごめき続けるのみだ。
9月21日(水曜)
予想以上に修羅だった
9月22日(木曜)
修羅はつづく
9月23日(金曜)
人は頑張れば頑張るほど、その他の世界が見えなくなる。
想像力を失う。
9月24日(土曜)
人権について学ぶ。
が、何かが足りない。
9月25日(日曜)
分かり合えることで成り立つ世界。
それが人間の世界のように感じる。
人と人の間、関係性、世間を表す概念「人間」
人間には、どこか「話し合えばきっと分かり合える」みたいな倫理観があるように感じる。
分かり合えるという希望を持つことは悪いことではないが、その一方で時間が経つにつれ「みんなと分かりあわないといけない」という価値観になっていくように思う。
60年代のヒッピームーブメントで火がついたヒューマンビーイングの意思も、原則は人間の話である。
バギズムに関しても、袋に入ることで視覚的な差異が見えなくし、純粋な相手のメッセージが伝わる、偏見を捨てて分かり合える、という価値観が見える。
人は、言語や道具を使い、現象に意味を見出し思考する。
言語を使える人と人の関係性であれば、分かり合えるはず、という希望はもち得るし、それを基準に価値観が生まれるのもそうだ。
人は人権の名の下で、平等に生存と自由の権利がある。分かり合えるはずなのだ。
人と人では双方向的な関係性をイメージしやすい。
しかし、人と人以外では一方向的になる。
人は一方向的に動物や植物の世話をしていると思っているし、台風や地震などの自然災害には一方向的な被害としてしか見えない。
また、人以外とは言語コミュニケーションができなく、人のような感情や意識があるかも分からないので、(世話をする、という目的がないかぎり)気をつかったり配慮は基本的にしなくなる。
ただ、これは人と人でも起きたりする。例えば、言語を共にしない人に対しては、自然と気を使ったり配慮の意識が減るように感じるし、文明的な感情や意識が存在することへの想像力が失われていくように感じる。
自分の常識で分かり得ない存在や、都合の良くない存在は、バカにされ、距離を置かれ、排除される。
もしくは過度に擁護され、分かったふりをされ、自己の尊厳に利用される。
人間は分かり得ないへのリテラシーが低すぎるのだろう。
我々が生きる世界や社会というのは、人と人の社会、人間社会をイメージし、我々という意識は人間をイメージしているから仕方のないことだと思う。
なので、モアザンヒューマンやマルチスピーシーズの概念、人以外を含めた視座での人間に代わる概念が必要なのだと思う。
人以外の存在はそもそも話せないし、分かり合えたかどうかも認識しようがない。分かり得ない存在との共存が当たり前の社会なのだ。
存在するだけで、相互に影響を与え、変異し動き続ける。
これが生きているということだろうし、存在を認められているということだ。
アイデンティティや生きる意味はその上で考えると、見え方が大きく変わってくる。
人間に代わる概念、それは「うごめき」なのではないか。