見出し画像

今週の出来事(5/16~5/22)

Random thoughts and head trip [Week. 115]

前回はコチラ→

今週の出来事を書いていきます。


5月16日(月曜)

遠い昔のようだ。


5月17日(火曜)

かつて存在した。


5月18日(水曜)

マルチバースには泡宇宙と多世界解釈があるらしい。いかに異なる世界を認知するかだ。


5月19日(木曜)

今ある空間と時間、そしてそれを認知する体感覚、それらの認知と予測で形成される現実。ここに影響を与えている感覚がうごめきを認知させてくれる。


5月20日(金曜)

全体の一枚絵。


5月21日(土曜)

うごめきの認知する方法とは、全体の一枚絵を捉え、その一枚絵に対して自己が影響を与えているというのを認識することだと思う。
全ての全体というのは認識不可能だし存在しえないとして、ある領域(認識の範囲、空間、時間)の全体の一枚絵を捉えることは可能かと思う。そして、その一枚絵の中に存在する個としての自分が全体の一枚絵に対して影響を与えている、その感覚がうごめきの認知である。そして、それを物質や技術を媒介にして認識しやすくする。それの一つが写真なのだろう。写真によってその現実での自己を切り取るのだ。そしてまた、自分が認識していない範囲でのその現実の一枚を誰かに切り取ってもらう。それは多世界解釈のような世界線を認識できるようにする行為かもしれない。
そこに人は寂しさを感じるかもしれないし、快楽を感じるかもしれない。
その感覚に関しての記述を残した時、それは全体の一枚絵に対する自分の相互影響を世に表現するものとなるかもしれない。

自分が感じる全体の一枚絵が循環を表している時、人は心地よさを感じる。
美しくも心地よいうごめきは、循環と拡張の循環。
今の世は出口がどっかにいっている。入り口もどっかにいっている。
ここの入り口と出口がつながる時、二項対立の境界は曖昧になり快楽を感じる。そして循環を感じた時心地よさにつながる。ただどこかで循環を手放す。その時異なる循環が流れ込み、拡張する。その時にも快楽は生まれ、それは美しさにもなる。美しくも心地よいうごめき。


5月22日(日曜)

出口の先がどっかいっていて、入口の先がどっかいっている。一方向的な世界。成長一辺倒な資本主義のあり方など。これはある虚構が全体の一として信じられ、その中をただひたすら通り、そして留まっている状態。ある一なるものに包摂されているので、それ以外はない。出口の先は無い。その出口と入口をつなげ、循環構造にすることで、一なるものの包摂を無効化する。それがあるうごめきの一つのレイヤー、全体の一枚絵を循環構造にする。循環にいる、そして個であり異なるものである自己が循環と相互影響の関係にある。それが心地よい感覚である。
では、いかにして入り口と出口をつなげるのか。それは、述語の否定形を主語に置くことなのだ。「〜である」が一なるもの、あらゆるものを包摂するあるものであるなら、それとは異なるもの「〜ではあらぬ」が存在する。そして、「〜であらぬ」を主語化する、「〜であらぬものがある」となった時、入り口と出口はつながり、一なるものの包摂は相互包摂、無効化され循環構造となる。そうすることで、絶対的な全体の一はなく、あるうごめきの一枚絵があり、その循環となる。そして循環の中で異なるものは無限に増殖し、そしてうごめきは多層的に重なり、循環しながらも、その循環を手放し拡張し、新たな循環を描く、多元世界が存在する。異なるものがある、としたときに排除の感性はなくなり、循環へと変異する。
現実とは、複数の主体のエージェントによって構成される。それが共に回ることであり、それはコンティンジェンシー、偶有性が共にある。未知と共にある。それが共に回るエネルギーである。異なるものは、共に回り、循環構造を要した全体の一枚絵を複数の視点によって構成した時、心地よさを得る。そして、異なることで同時に循環を手放し、異なるものとの境界が曖昧になることで、快楽と解放が拡張へと導く。さらにまた新たな層のうごめき、循環が構成される。それらの運動が流動的にうごめき続ける。それが美しくも心地よいうごめきである。


振り返り

孤独は美しくも心地よい。多層世界も美しくも心地よい。
集団の中に個はいるのではなく、個の中に集団はいる。
それがコレクティブ。



【今週のPodcast】
そろそろ復活します。

いいなと思ったら応援しよう!