見出し画像

今週の出来事(2/7~2/13)

Random thoughts and head trip [Week. 101]

前回はコチラ→


今週の出来事を書いていきます。

2月7日(月曜)

うーむ


2月8日(火曜)

メディウムか漆喰だな…あとはスポイトに入れよう…
うごめきであればいいわけではなくて、やはり美しく心地よいうごめきを描きたい。そしてそれが多層的に重なり合っている状態、それを表したい。
拡張と共に構築が始まっている。体験観察はその拡張と構築がちょうど良いバランスでうごめいている。


2月9日(水曜)

進む。


2月10日(木曜)

拡張と構築は未分化な領域がある。拡張しながら同時に構築している状態である。それに近いのが体験観察という行為かと思う。この拡張と構築の問題の一つはそれぞれが行為として離れすぎていて、ここを横断する際に大きな苦しみや痛みが伴うことである。それはさまざまな言語表現によって存在が認知できる。成長なのか停滞なのか、越境なのか殻にこもるのか、変化するのかしないのか。ここには大きい壁がありそこを頑張って乗り越えるというイメージが存在するように思う。結果的にそれは難しい問題のまま横たわる。
ここの壁をいかに低くし、そしてなめらかにするか、未分化に近い領域かつ、わかれていて分かる状態なのか。それが体験観察という行為なのかと、体験して主観的に観察する。そして観察したものを再度メタ認知することで、体験によって拡張した自らのうごめきが見える。その時、拡張と同時に構築していることに気づく。興味関心が湧いて知識を求め、思考し夢中になっていく。気づけば新たに構築していたのだ、と。拡張と構築が未分化である。
また、頭の理解の前には身体的理解が存在し、そちらの方が影響が強いと思うが、それはイメージという概念で表せるのかもしれない。
言語イメージ、視覚的イメージ、聴覚的イメージ。あらゆるものを僕らはイメージで認知している。このイメージの領域で拡張が起きると脳の爆発が起きる。
イメージの領域で体験観察できるようにする。というか体験観察はイメージの領域と頭の理解の領域の間に存在するのか。
イメージによって元々理解しているもの。分けており、パターン化して、抽象度の高い状態で類似性を見出せる。そのようなイメージと異なるイメージを重ね新たな文脈に触れた時、通常であれば大きな乖離のあるそれがなめらかになるような気がする。それの一つがフィクションの力なのかも。


2月11日(金)

価値観は異なるだけではなく、濃度の違いもある。同じ価値観であっても濃度の違いは異なることに近い。しかし、ここは分けて考えることが難しい領域であり、そこに厄介さがある。異なる価値観は理解はできなくとも「こういう価値観もあるんだな」と一歩引いてみる視点を持つことも比較的できる。しかし、濃度が違う場合は、自身の価値観と未分化であるため、「こういう濃度もあるんだな」と一歩引いてみることが非常に難しくなる。価値観の濃度の違いとはそれはそのまま優劣に置き換えて認知されやすい。優劣で見てしまうので、異なる濃度なんだな、と分けて考えることができない。一歩引けず、自身と比較してしまうということ。そこの濃度の違いによる摩擦が多いように感じる。自身の身体を痛めつけるような苦しみがある。しかもこの濃度は濃ゆければ濃ゆいほど、強さというものも生まれてくる。この強さという概念とそれを求める欲求がこの厄介さを強化する。究極は盲信であり、それは最強の排他性でもある。そして、その価値観においては弱さをもつ盲信できない存在はどうなるのか?濃度の違いから異なる価値観が生まれる。オルタナティブが生まれる。
昨今の多様性という概念に存在するイメージというのは、全体の一にまとまるためには、異なることを認め合わないといけないから多様性は大事。という文脈になっているように思う。しかし、全体の一にまとまって、コンセンサスリアリティのみの世界になった時、それは一であり得るのか?相対する概念がないと基本的に人はそれそのものを認知できない。そう考えるなら、その一の中にある濃度の違いによる抑圧はなくならないし、そこから必然的にオルタナティブが生まれる。そのオルタナティブが生まれた時、一はどうなるのか。排他性が爆発しそう。魔女という概念が生まれ、魔女狩りが始まったように、イメージの力でその排他性が加速していく。一にまとまるための多様性は構造的に多様性を否定していってる気がする。さまざまな価値観をさまざまな濃度でバランスよく持ち合わせる。それは各々で。うごめきでありながらも分かれている。それは無限循環であるが、無限増殖よりかはマシなのかな。まあ、マシと表現するのはそれがいいと言い切らないための表現であるが。


2月12日(土曜)

価値観には「濃度」と「距離」という概念を加えたい。異なる価値観だけではなく、価値観は同じだが濃度が違う。
また、距離によってこの価値観の違いの見え方は変わってくる。距離とは価値観の近さというよりも物理的な距離、接触頻度、関係性の距離という意味合い。この距離が近いと、離れていれば異なる価値観に見えていたものが、同じような価値観に見えてくる。混同していくようなイメージだ。この混同によって異なる価値観は交わり混ざっていく。異なる価値観ではなく同じ価値観に見え、そしてそこの違いは濃度の違いに見える。
一見すると混ざり合って良いように見えるが、決して良い面だけではない。お互いの価値観を認め合う時、異なる価値観であれば理解はできなくとも一歩引いて受け入れることはできる(これも相当難しいが)。しかし、同じ価値観として見た時濃度の違いとして見えた場合、一歩引いてみることが非常に難しくなるし、その状態が自分でもよく分からなくなる。そして濃度の違いとは優劣、強さの価値観として認知される。その時の受け入れは非常に難しいと思う。
多様性を認め合うために立派な活動をしている人でも身近な存在には優しくできないということは往々にしてある気がする。それは、しっかりと頭で理解して視点の違いを認識できるようリテラシーを高めれば異なる価値観は受け入れられる。しかし、濃度の違いはそうはいかない、その難しさを表しているように感じる。距離が近づくと異なる価値観は混同して見え、同じ価値観の中で捉えるようになるからだ。また、この濃度の違いによって優劣が生まれると、摩擦が生まれるだけではなく(これに関しては思いっきし摩擦して混じり合うという解決法もあるが)、優劣の関係性に息苦しさを感じるようになる。
優劣の劣に自分が至った場合、同じ価値軸では息苦しいから、濃度の違いを異なる価値観として認識したり、異なる価値軸にいく。その時、イメージが書き換えられると、強烈な情動が生まれ、そのまま価値観は分離する。
それが悪いことではない。ただ、同じ価値観となり優劣が生まれることで異なる価値観が生まれるということだ。オルタナティブな価値観はまた異なる価値観として排他となる。
異なる価値観、異なる価値観濃度、距離によるうごめき。ここの存在を認知することから、この難しさを変えていく道が開けるように思う。


2月13日(日曜)

価値観の濃度とはうごめきの渦の強さで表せるかもしれない。関係性の距離はどうなのだろうか。多層的な変化を動画で表すしかないのかな。
濃度と関係性の距離を踏まえた上で、美しくも心地よいうごめきを考える。
濃度の濃さは渦の強さあり、カオスのうごめきを一気に持っていく。しかし、この持っていくときに、異なる色を混ぜ合わせて一色にしてしまうのではなく、色の解像度は保ったまま引き伸ばして力の方向性を合わせる。それが美しさを生むのではないのか。ただ、それだけでは心地よくはない。緊張感が強い。なので、その渦の強さは全てには影響を与えない。大きく一気にシンプルな方向へ力を向けるが、それは大きくとも全体の8割程度。残り2割は大きい渦に影響を受けずに細かくうごめいている。そしてその2割にはユニークなフィクションが存在している。フィクションによりどちらか分からない状態でありつつも、排斥されない状態。それはジョークのもつ力。ごまかしとも言えるかもしれないが、そこに心地よさが生まれる。8割の強い渦と2割のユニークなフィクション。このバランスが美しくも心地よいうごめきとなるのではないのか。
では、濃度の違いによる摩擦をどうするのか。それはジョークで誤魔化すこと。アホみたいだがそれが有効なのかもしれない。


振り返り

現代も5,000年先の未来から見たら古代である。



もにゃもにゃ


【今週のPodcast】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?