今週の出来事(6/12~6/18)
Random thoughts and head trip [Week. 171]
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今週の出来事を書いていきます。
今週の振り返り
見えてくるようで見えない。
ゆっくりな思考で生きるのは、この世では難しい。
6月12日(月曜)
表現について考えている。
自己の輪郭を崩す動きと争うことなく、動きの変容を受け入れ、気持ちのいい我々の輪郭を模索する動き。この動き自体が美しさだと考えている。
この動きの美しさをいかに表現するかがテーマだ。
(このためには表現技術が必要であり、編集的表現技術を身につけるべく現在は日々学んでいるわけだが)
また、動き自体が美しいのであって、気持ちのいい輪郭が完成すること、気持ちのいい我々になることが美しいわけではない。
これは偶有的な一時的な結果でしかない。
ここの違いが重要である。単に、新しい世界で幸せ見つけた。みたいな話ではないのだ。
スーパーラット自体が美しいのではなく、毒エサと共生するよう自らを変容させていく動き、その生体行為にこそ美しさがあるのだ。
この動き自体の美しさを表現するには?というところが重要な問いであり、自分が今まで全く取り組めていなかったところではあるが。。
主題から方法へと向かっている。今まさに主題中心の自己の思想の輪郭が崩れ、方法の思想と崩れながらも気持ちのいい我々になろうとしている。
ああ、今のこの葛藤だらけの自分の動き自体が美しいのだろう。
ではこれをどう表現するか?なのだ。そう考えるとつまらない発想しか出てこない自分の表現力のなさが情けない。
その動き自体が美しい線、これを絵で描くとしたら、動きのある線だ。そして意思の感じる線でもある。
動きと意思の気配を感じる線。これが美しい線であろう。
動き自体の表現、ここにこだわろう。動的な表現だけが動きを表現する方法ではないはずだ。
物語で描くとしたら、この二項対立の世界、固定化された自己の世界から、線が交差し踏み外した人を描くことになるだろう。ただ、そこから幸せを見つけるとか、新たな才能を発揮するとか自分らしく生きて輝く、みたいなところに美しさを描くのは違うのだろう。それは新たな二項対立を生むだけで、固定化からは抜け出せない。
重要なのは、気持ちのいい我々の輪郭を模索し動く、その行為自体の美しさなのだ。実際の表現をどうするか、というのがこれから編集していくことになる。
しかし、方向性が見えてきた。そして自分がやることも見えてきた。
主題から方法へと。
6月13日(火曜)
なぜか起きれた
6月14日(水曜)
なぜか調子いい
6月15日(木曜)
ああ、今日はなんだか。
6月16日(金曜)
さっさと進めていくフェーズか。
6月17日(土曜)
争うとは、異なる動きをコントロールしようとすること。
受け入れるとは、異なる動きとの相依的な自己の輪郭の変容を認識し容認すること。自己の濃度が薄れる実感。
その輪郭の変容を受け入れながらも、腹落ち感と相談しながら我々の輪郭を模索する。
この腹落ち感というものの理解が重要だ。
腹落ち感には、心地よさと気持ちよさがあるように感じる。そして、この似たような2つの概念は似てるようで微妙に異なる。
ただ、この自己の輪郭が崩れながらも、自己の腹落ち感と相談しながら我々の輪郭を模索する、その動きが美しい。美しい行為体なのだ。
トランジションデザイン、自前の思想、応答の人類学。
6月18日(日曜)
異なる動きをコントロールせず、同化も排除もしない。
相依的な自己の変容を内側と外側から認識し、保留して流れる。
そのうえで我々の気持ち良い輪郭を求める。
それは、腹落ちする我々を築くということか。
行為体としての我々を見出すということか。
我々と我々以外で分けるのではなく。
腹落ちとは何だろうか。
情動はどこから湧き出るのだろうか。
今日も気持ちの良い動きを模索する。