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今週の出来事(3/13~3/19)
Random thoughts and head trip [Week. 158]
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今週の出来事を書いていきます。
今週の振り返り
新しい技術、新しい我々。
その間に存在するうごめき。
3月13日(月曜)
アイデンティティが邪魔をする。
3月14日(火曜)
いかに我々の物語を紡ぐか?
これを意識しながら生きてみよう。
3月15日(水曜)
いかに我々の物語を紡ぐかという問いはちょうど良いな。
3月16日(木曜)
新しいモデルを置くことによって、既存のモデルの宇宙技芸を読み解く。
文化、精神、技術の根底にある存在を見出す。
その見出した存在と新しいモデルを耕す。我々の物語を紡ぐ。
これが共生というものだ。
そのためには歴史的、観念的、存在論的なリテラシーが必要となる。
また、この我々の物語を紡ぐという方法での我々とは、集団的エージェンシーだ。
集団的アイデンティティを乗り越える、または集団的アイデンティティをオブジェクト化して集団的エージェンシーにとっての客体にする。
どのような時に我々の物語を紡いでいると感じるのか?
我々の物語を紡いでいこうと思う時とはどんな時なのか?
その我々の条件はあるのか?
ここら辺が最近のテーマ。
3月17日(金曜)
技術や道具というのは人の意識に影響を与える。
GPT4やGPT4とのうごめきを観察すると強くそれを感じる。
ふと感じたのは意識を大幅に変える技術を知ると、人は乗り遅れてはいけないという意識と共に長期的な視野が一瞬失われる。
そして世界が狭く感じられる。
これは集団的エージェンシー的熱狂というよりも集団的アイデンティティ的熱狂のような気がする。
ポジション取り競争のような。
そして熱狂は過ぎ去り、技術が意識に浸透していく。
技術を習得する時間について考える。
身体的技術、思考的技術、オブジェクト的技術、習得する時間は無駄なのか?
リテラシーか。あとは倫理。
新しい技術と既存の技術がうごめく中での摩擦、コンフリクト。
コンフリクトから既存の技術の倫理が浮かび上がってくる。
倫理から世界観や文化、存在論が浮かび上がってくる。
重要なのは集団的エージェンシー的な我々が生まれてくるかどうかのように感じる。
あるオブジェクトに対して目標や意図を共有しうごめく中で耕される我々の物語。
新しい技術との共生がそこにある。そして、我々は更新される。
3月18日(土曜)
快感だ…!
3月19日(日曜)
新しい技術を置くき相対化することで、既存の技術にある文化や世界観、プリミティブな領域が掘り起こされる。
この技術を介していかに我々を認識するか?という問いで見えてくる。
私たちと彼らでカテゴライズ分けして認識する我々。これは倫理観というモデルで表現される。
ある客体への関係性を共にする行為を通じて認識する我々。これは快感からはじまる我々の物語。
物語は事後的にしか認識できない。
倫理観はある種この物語の方向づけをする要素だ。
倫理観というモデルで我々のあり方を事前に定義する。
倫理観は目指すものなのだろう。
しかし本質ではない。
本質は快感からはじまる多元的で一回性の高い雑多な物語である。
新たな技術にある我々の認識する要素が何か?倫理観は何か?主客未分な快感は何か?
そして新たな技術へ拒否感や嫌悪感を感じないときは、往々にして元々の我々の文脈上にその技術も存在すると捉えられる。
しかし、拒否感や嫌悪感を感じた時、その時は我々の倫理観を手放すときだ。
倫理観を手放し、本質的な主客未分な快感同士を交わらせる。
そして耕すのだ。
耕すとは、我々の物語を紡ぐこと。
これが新たな我々となる、時代との共生のあり方だ。