今週の出来事(6/20~6/26)
Random thoughts and head trip [Week. 120]
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今週の出来事を書いていきます。
6月20日(月曜)
人は一つの世界に生きているわけではなく、多層的なうごめきに生きている。多層的なうごめきに生きている解像度が近年は高まっている。その時、浮かび上がってくる問いは自己とは何か?というものであろう。
多様な世界を横断して生きることができるようになった時代であるが故に生まれてくる問い。自己とは何かを認識しにくくなっている。
人は、自己をどのように認識しているのだろうか。
うごめきの中での役割を認識することで自己を認識しやすくなるのかもしれない。
かつては、一つの世界に生きている感覚が強かった時代においては(それでも実は多層的には生きているが顕在化していなかった)その一つの世界においての自己のカテゴライズや役割で自己を認識しやすくなっていたのかもしれない。楽ではあるが、社会的成功以外に自己実現が見えづらくなっている。人の存在は標準化され、一つの世界の中心に近づくことだけが価値基準となる。
自己が見えづらい多層的な世界では、自己探求的な自己実現が見えてくる。価値観や価値基準が変化している。
6月21日(火曜)
具体的で早い思考というのは、いま存在するうごめきの中にグッと入り込んで、その中の個として振る舞うことだ。
6月22日(水曜)
人は自己の世界認識を多層的に認識している場合には、
「自己とは何か?」「自己の喜びは?」「自己の生きている意味は?」みたいな自己探求的な自己実現モデルになる。
また、自己の世界認識を一つの世界として認識としている場合、オンとオフの2軸。オンの世界での成功を自己実現モデルになる。その世界の社会での論理の中での成功を求める。しかし、人はオンの世界での成功を自己実現としながらも、今はオフの世界が充実している。なので、オンの世界のことを考えなくてはいけない、悩むということはあまり好ましいことではない。そう考えるなら、オンの世界が自己実現につながる前に、そのオンの世界での悩みを解決することが先に必要な場合が多いのかもしれない。
6月23日(木曜)
オンとオフしかない人生
6月24日(金曜)
到達に向かうという希望
6月25日(土曜)
一人称的主体(人生の主体)は、私なのかあの人なのか。自己の探求を行ううちに、三人称的主体(等根源的主体)としての私が、私として浮かび上がってくる。たくさんの主体のうちの一人としての私である。
一つの世界の中の一人としての私は、その世界での身体性を伴った役割と周りの人や自分の振る舞いを持ってして認識できる。
しかしそれは人生の主体としての存在を認識できるわけではない。
人生の主体としての存在を私という対象として呼ぶことで、三人称的主体としての私に認識が変わる。
では自己とは何か?
人は一つの世界に生きているように身体的、物理的には認識できる。対象とは物理的に到達する対象なのだ。この到達が一つであるので、一つの世界と認識できる。
しかし、それによって抜け落ちるそうではない世界というのもある。また、その一つの世界の論理によって主流派、いわゆるマジョリティとマイノリティの存在や差異が生まれ、そこには排除もしくは包摂的取り込みが生まれる。これが良いのか悪いのかは分からないが、少なくとも抜け落ちる何かがあり、それは心地よさを失わせる。時には美しさも。
複数の世界に多層的に生きていると認知する。それがうごめきの世界観であり欲求である。
その場合、三人称的主体、たくさんある主体は、等根源的主体であるのか?という問いが生まれる。主体が異なるということは生きている世界も異なる。一つの世界ではなく、多層的な世界の重なりに主体が存在する。それは異物がうごめき合っている世界の重なりとも言い換えられる。
その場合、主体の根源は平等ではない。異なるうごめきの重なりに根源も存在していて、そんな異根源的主体のうごめきの中の一人として私がいる。
それはもはや、自己が何なのかが複雑化しすぎて何か分からなくなる。
人生の主体としての私とうごめきの中の一人としての私。しかし、世界は私の影響によっても変化するし、私の根源でもある。
そこには私という到達点がぐにゃぐにゃになり、到達が見えない。
一つの世界に生きる一人という認識の場合、自己の存在の認識、肯定(自己実現)は、その世界のルールにある中心に近づくことが社会的成功であり、その社会的成功への到達を目指すことで実現していく。その世界での身体性を伴った役割と振る舞いによって自己を認識し、証明するからだ。
しかし、その世界が全てを包括する唯一の世界ではなく、多層的に重なって存在する世界の一つでしかないと認識した時、自己実現どころか、自己の存在の認識、証明すら崩れ去る。
なので、多層的世界に生きると認識した場合には、その重なりであり異物である自己とは何か?ということを探求することが自己実現となる。それは、物質的な何かや観念的な何かを通して自己を探求することとなる。しかし、世界はその自己によっても変化するうごめきである。自己の存在を世界の中の役割や振る舞いで証明しようにも、世界はうごめき、変化し続けるので、役割や振る舞いを固定化できない。また、世界の中心に近づくことを成功や成長という概念で到達するものとして認識することも、世界の中心も変化し続け、しかもその中心は虚構であるということを認識しているので、到達というものが存在しなくなる。自己実現の到達がないのだ。これが何を意味するのかは分からないが、少なくとも一つの世界に生きているという認識にある到達はないのだ。あるのは、自己とは何か?という問いを探求する自己探求のみ。それはもしかしたら終わりのない、到達のない自己実現なのかもしれない。ずっと自己実現し続けるのだ。到達点はなく。これは何か?循環なのか?ただ、僕はここに美しさと心地よさを見出している。それが何なのかはまだ分からない。その探求こそが私の自己実現、自己の認識、存在の証明みたいなものだ。
6月26日(日曜)
人は今いる世界のルールの中で、到着可能な対象(自分の身体)が持つ役割や振る舞いによって自己を認識している。
これは世界での位置とも言える。
異なる個がうごめき合う多層的な世界に生きていると認識している場合、本当の自分は何か?という問いに関しては、この世界での位置、つまり自分の存在意味を無意味化することで読み解くことができるかもしれない。
そして意味の無意味化は、脈略のない異なる意味をぶつけることで起こす。
それは、異なる世界、異なる位置を多層的に行き来し、うごめくことで無意味化が起きるかもしれないということだ。
それは決して気持ちの良いことではないかもしれない、葛藤がある、しかし、心地よさが立ち現れる気がする。
振り返り
オンとオフの世界に生きるのは楽だ。しかし心地よくはないし、美しくないこともある。
多層的な世界にうごめくのはもやもやしているが美しくも心地よい。
しかし、どちらを排除するわけではなく、循環するのだ。
それが本当の美しくも心地よいうごめき。
そして、この終わりのない循環はこの身体性によって到達する。それが物理的な世界の力だ。
【今週のPodcast】
来週から新しいPodcast開始します。
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