あるいは『客観的美質性』という指標
『客観的美質性』とは、定量的な指標に代わる概念である。
さまざまな異質を特定の分類によって同質化し、数字に落としこむことで客観的に認知できるようにしたものが定量的な指標。
田中さんも佐藤さんも鈴木さんも、人というカテゴリーに同質化したら「3人」なのだ。
数の大きさは強さとなり、数の少なさは希少性を生みだす。
定量的な指標によって人はまとまり、強さを得てコトをなしていった。
無限の成長を信じてより早くより効率的に、安心便利を追及しているのだ。
今の経済を中心とした世界は、この定量的な指標によって包摂されている。
しかしこの世界は定量的な価値のみで構成されているのだろうか?
いわゆる「数字であらわせない価値(お金であらわせない価値)」のような文脈で語られる、質的なもの。
問題はそれが何なのか、客観的な指標で語られないことである。
客観的な指標であらわせないことで、せっかく質的な情動的な価値を感じていても、けっきょく定量的な指標に取りこまれ経済成長をひたすら追うゲームから抜け出せなくなってしまう。
いまの世の中には「定量的な指標に代わる客観的な指標」が必要なのだ。
そして「定量的な指標に代わる客観的な指標」になり得るのが『客観的美質性』である。
そもそも美質性とは何を意味する?
美質性は対象を「〇〇な美しさ」で表現することで生まれる。
目の前にあるグラスには「透明な美しさ」や「装飾的な美しさ」、「液体をとどめる美しさ」や「生活を手助けする美しさ」などが存在する。
どこかつかみどころのない、感性的なもの。これを美しさによって可視化する。
ちなみに「定量的な価値」も「定量的な美しさ」と言える。
いまの世の中を包摂している定量的な指標は、美質的な指標に包摂されるのである。
しかし「美しさ」は人それぞれの感性であり客観的な指標にはなり得ない。
その客観的にあらわせないと感じる「美しさ」を、客観的に認知できるようにする概念が『客観的美質性』なのである。
では、客観的な美しさ(客観的美質性)をどう証明するか?
この問いに答えることで、「定量的な指標に代わる指標」を生み出すことができるのだ。
そして、この問いのボクなりの答えは
「『客観的美質性』は『とろとろしたうごめき』が証明する。」
である。
『とろとしたうごめき』についてはまた次回。