今週の出来事(6/13~6/19)
Random thoughts and head trip [Week. 119]
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今週の出来事を書いていきます。
6月13日(月曜)
選択と集中、統合と解放。
6月14日(火曜)
美学とは何か?思考の柔らかさ、可動域を広げる。
日々の生活では、思考の可動域は狭い。
だからこそ、いずれくる破局に向けて思考のストレッチが必要なのだ。
思考のストレッチには苦痛が伴う、なので倫理がある。ルールみたいなものか。対話とはマッサージではない、ストレッチなのだ。
どんなに固くて強くなっても、柔らかさがなければ、体は思う通りに動かない。
6月15日(水曜)
理想に生きるのか、社会に承認されるように生きるのか。どちらでもなく徹底的にアウトローとして生きるという道もある。
美学とはこの微妙なバランスの狭間に存在する。
どちらかに向かうのか決めてしまうのか、またはどちらも選ばずに生きるのか。循環という道もある。
包摂とは、主体性を持ったマジョリティがマイノリティを受け入れるともいえるが、同時にマイノリティのマジョリティに対する棘を抜くことにもなる。
6月16日(木曜)
人称的とは…?
6月17日(金曜)
なんでこんなに具体的な世界に心奪われるのだろうか。
6月18日(土曜)
広くて早くて遅くて狭くなりたい。
6月19日(日曜)
今生きているうごめきは共通基盤の一つの社会と認知し、そこで成功的な欲求を持つことは「今の自分ではない、何者かになりたい(社会的に)」と表現される。
これは近代になり世界が標準化していく過程で生まれてきた一つの自己実現モデルと言える。
この自己実現モデルが少しずつ変化しているように感じる。
というよりも標準化していく中で存在を見落とされていた、いわゆるオルタナティブに分類される自己実現モデルの存在感が一部のうごめきで高まっているのだと思う。
それは、探求的な欲求で、「誰でもない、自分になりたい」と表現されるものである。また「ありのままの自分でいたい」などとも重なる。
この探求的な自己実現モデルは、個人的なもので、成功的な自己実現モデルのように自分の全てを包摂する一つの社会に承認されることを求めているモデルではない。
自分の中にある本質、主題をもとに、自分が納得できることを目指すモデルである。
自己は一つの社会に包摂されているのではなく、自己は複数の社会を包摂している。今ある現実は自分が見えている現実であり、皆同じ世界に生きているわけではなく、異なる世界に生きている人々が相互作用を起こしてうごめき合っている状態なのだ。そのうごめきが多層的に存在していて、そのうごめきに包摂されながらも個である自己は複数のうごめきを包摂して存在している。
世界をそう認識した時に、いわゆる社会的が提示する成功を目指す意味は何なのだろうか。自己がどうありたいか、探求していくことに意味はあるのではないのだろうか。
意味の漂白。今存在する世界の意味を理解するには、一度意味を漂白して無意味化し、そしてまた意味を見出す必要がある。
ただ、着実に標準化されていった自己実現モデルは着実に分散化していっているように思う。
一つの社会に生きる意味は無意味化されつつある。
振り返り
フィクションはその時代を映し出す鏡とも言える。
6月29日から新しいPodcast始めます。
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