今週の出来事(3/14~2/20)
Random thoughts and head trip [Week. 106]
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今週の出来事を書いていきます。
3月14日(月曜)
寝坊した。
3月15日(火曜)
うむむ、寝坊した。
3月16日(水曜)
普遍という言葉には、同質や繋がりのような意味合いを感じる。
まとまらなくてはいけないという考え方はずっと人類の中に存在する考え方であるように感じるが(そして達成されることのない目標のような…)、それは最高の普遍を指向しているように感じる。普遍が上位にあるのだ。
ふと「最低限の普遍」という概念を考えた。普遍を指向するのではなく、最低限、基盤に存在する普遍。それさえあれば、あとはバラバラに心地よく美しくあればいいのではなしか。そして最低限の普遍とは、ugomekiであると考える。人とはugomekiであり、世のあらゆるものがugomekiであるという理解。
それぞれ個々に異なりながら、相互に影響を与える存在。それがugomekiであり、最低限の普遍なのである。繋がりたくなくても繋がるし、まとまりたくなくても相互に影響に与える。素晴らしいことでも忌むことでもなく、最低限の普遍である。そしてugomekiの波なのである。普遍を目指すのではなく、最低限の普遍で世界を理解し、美しくも心地よいうごめきであるのだ。簡単にいうと存在の認知を変えること。そのために、ugomekiの可視化をチャレンジしてみようと思う。
3月18日(木曜)
最低限の普遍について可能性を考える。
何も思いつかない。
3月19日(金曜)
めっちゃ寝た。
3月20日(土曜)
最低限の普遍とは、コンセンサスリアリティを構成する最低限の要素であり、基底に存在するもの。それは、死生観によるものかと考えられる。生と死は隣り合わせに存在し、生きて死ぬというのが最低限の普遍と言えるのかもしれないが、そうではない存在には最低限の普遍は適用されない。最低限の普遍というのは定義ができないし、最上の普遍というのもありえないのかもしれない。もう少し違う概念で考える必要がある、が、今はエネルギー不足であると理解する。
色々やりすぎなのかもしれない。多層世界にいながらもやることはある程度まとまっていた方が集中できるのかもしれないが、どうなのか。ただ、あくまでもあらゆる具体は思考する材料でしかないので、やっていることは、観察して思いを馳せ、思考するのみなのかもしれない。
3月21日(日曜)
最低限の普遍について考えるのは諦めた一方、何かを感じたので続きを書く。現代においての最低限の普遍と言えるものが、生きて死ぬとした場合、ここの普遍からはみ出る存在というのは、なんなのか定義ができない。もしかしたら忌避する存在になるのかもしれない。普遍を逸脱することが新たな世界レイヤーを生み出す、ないし発見することなのかもしれない。
現代の二元論的世界では、生きて死ぬという最低限の普遍に対してのアプローチは生と死を分けて、死を追いやること。主体と客体を明確に分け、対処をする世界観。時間という軸の中で、死というものを保留し続けて生を引き伸ばしている。これは危険な思考にとらえられないかもしれないが、この世界観での到達点は死をなくすことなのかもしれない。それが実現可能かどうかは別として。
しかし、そうではない生と死のアプローチもあるように感じる。
かつての狩猟民族は狩る対象の視点をもとに行動をし、自分自身をぐにゃぐにゃにし、自己の匂いを消し、時には対象に擬態し、時には対象を愛し、対象との境を曖昧にし接近する。そして、その危うさのある不安定な関係の中で、ぎりぎりのところで仕留める。
これは、主体と客体が未分化なものに近づいてきているように感じる。自己を狩っているのかもしれないし、対象に狩られてる、狩らさせてもらってるのかもしれない。矢を放った後に獲物に矢が当たり仕留める。これは僕らが普遍的に感じている時間と狩りの流れだ。だが、しかし主客の未分化な世界観では、時間は同時である、というか無時である。矢を放ったと獲物に矢が当たるのは同時であり、そこには因果関係はない。生と死が共存している世界線の中でのうごめきでしかない。これは、もしかしたら生と死の二元論ではないアプローチが見えてくるように感じる。
個々は異なる存在でありながらも、主脚が曖昧なうごめきでもある。うごめきであることは、死と生を未分化にし、どこか死への恐怖を違うところへ持っていくような、なんか分からない感覚がある。
うむ、これはなかなかに危険な思考に見えるので、一旦は辞めておこう。しかし、何かを感じたから記しておく。
振り返り
人は人であることを憎むのか、それとも愛すのか。そんなことはどうでもいい。
もにゃもにゃ
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